学校文化の在り方が性差別の構造の再生産につながっていると指摘する愛知東邦大学の虎岩朋加准教授は、そうした構造を「鋳型」に例えて説明する。人間は鋳型からは逃れられないが、多様な鋳型を用意することが重要だと話す。インタビューの最終回では、少ない鋳型しか用意できていない現状の学校で、どのように性差別の構造を変えていけるかを聞いた。(全3回)
――長年続いてきた学校文化を変えていくのは難しいとの話がありましたが、一方で社会の要請というか子どもたちの要請みたいなものから考えて、今の学校教育の在り方では駄目だという感じもしています。
確かに学校には管理が必要です。その一方で、大きな社会変化に見舞われて、子どもたちは多様な価値観・感受性を帯びています。学校の行き過ぎた身体統制によって、そのような子どもたちの生きる力や情動みたいなものまでもが、隅から隅までコントロールされているようにも思います。不登校など学校に適合しない子は、そうしたことを感じていても言葉にできないのではないでしょうか。子どもたちの多様な価値観や感受性が考慮に入れられなければ、フリースクールを学校の代替とするだけでは、学校の仕組みが抱える問題を解決することにはならないと思うのです。
学校の身体統制とか権力とかは、先生だけが生み出しているわけではなく、現在の学校の構造自体が教員の在り方を規定し、教員も無意識にそうした構造の再生産に参加しているわけです。それは先生だけでなく子どもたちも同じです。そこにいられない子は学校から離れていく。でも、学校にいられればいいという単純な話ではありません。
――学校で過ごせている子も、小さいことをちょっとずつ我慢しています。そして、社会はちょっとずつ我慢しながら生きていくことが正しいと理解する。そうして社会人になって会社で働いても、我慢しながら合わせていきます。
それが社会なんだと理解することで、大事な部分が見えなくなってしまいます。他方で、現状に乗っかって成功する人もいる。その人たちは、「こうやって女性も成功しているじゃないか。社会にそんな問題はない」みたいなことを言いがちです。
みんながちょっとずつ我慢したり、「我慢なんて現実にはない」みたいに言う人がいたりする中で、苦しんでいる人たちもそれを受け入れ、結果として今の社会の在り方を支えてしまっているんです。
――先ほど不登校の話題が出ましたが、先日、岐阜市にある不登校特例校(学びの多様化学校)の草潤中学校を取材しました。そこでは生徒が担任を選び、カリキュラムも生徒と教師が一緒に考えていました。
子どもたちの学校参加はとても重要だと思います。もっと多様な鋳型を学校が用意しなければいけないし、むしろ学校が用意するというより、子どもたち自身が鋳型の準備にも参加できるといいなと思います。
例えば校則を子どもたち自身に決めさせようという動きがあります。しかし、廃止して当然の決まりまで子どもたちに考えさせている例もあります。そうした決まりは校長がやめると言えばいいだけの話です。
「子どもたちの主体性を大切に」と言いながら、結局は大人が考えていることを子どもたちにやらせて、それをあたかも子どもたちにルールを作らせているような形でパフォーマンスさせているような事例も決して少なくありません。それの何が主体的なんでしょうか。結局、すでに存在する答えに向けて子どもたちが動かされている。加えて、それを子どもたちに「自分たち自身でやった」と思わせているような状況があります。
――校則を変える動きで言えは、最近は制服を生徒たちが決める学校もあります。例えば、学ランとセーラー服だった制服をブレザーにして、女子でもスラックスを選べるようにする学校が増えています。しかし、制服を男子でも女子でも選択できるようにするのは、社会的な流れです。制服を変えるという既定路線がある中で、生徒たちにデザインを選ばせることで、何となく「生徒たちが主体的に決めた」という雰囲気を生み出しているような例も少なくないように思います。
もっと本質的な部分で、学校の在り方を決めていくことに子どもたちが参加することが大切です。でも、実践は難しいなと思います。教育分野はマニュアル本や実践本がたくさん出ていますが、マニュアル化することでこぼれてしまうものもあるからです。
そうしてこぼれてしまうものを一つ一つ拾い上げていくことが、子どもの成長につながっていくんだろうと思います。そうして拾い上げることによって、子どもたち自身が多様な鋳型を作ることに参加できるようになるのではないでしょうか。
人間は鋳型からは逃れられないと思うんです。私たちは言葉を使っているし、言葉は限られている。言葉には意味があって秩序があり、それによって行動や生き方が規定される。でも、別の言い方や表現の仕方を一生懸命生み出そうとすることで、別の鋳型を生み出すことができる。それこそが学びだと思うんです。
こういう考えを述べると「余計に複雑にしているんじゃないか」と批判を受けたりします。でも、複雑なんですよ。簡単に言えるなら苦労しないし、すでに変わっていると思います。
――難しいことは表現も難しくなります。簡単にしようとすると、こぼれてしまうものがあるということですね。
つまり、人は鋳型から逃れられないけれども、鋳型を特定の人が準備するんじゃなくて、一人一人が生み出していく。そこに皆が参加できることが、自由につながると思うんです。もちろん、完全に自由にはなり得ませんが、自由を生み出すことに参加すること自体が重要なんだと思っています。
自分の中でうごめいているものに近い在り方を自分自身でつくり上げる。そういうことに子どもが参加できる環境を準備するのが、先生の仕事であってほしいと思います。そうすることで、学校が子どもたちにとっても先生方にとっても、安心で安全な場所になるのではないでしょうか。
【プロフィール】
虎岩朋加(とらいわ・ともか) 愛知東邦大学教育学部子ども発達学科准教授。1976年、名古屋市生まれ。名古屋大学大学院教育発達科学研究科単位取得退学、ニューヨーク州立大学バッファロー校教育学研究科博士課程修了。Ph.D. in Social Foundations。名古屋大学大学院教育発達科学研究科助教、敬和学園大学准教授を経て、現職。専門は教育学、社会哲学。著書に『教室から編みだすフェミニズム――フェミニスト・ペダゴジーの挑戦』(大月書店)など。