【インクルーシブな予防教育】 薬物依存からの回復の道のり

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 昨年10月に出した著書『専門家と回復者に聞く 学校で教えてくれない本当の依存症』の中で、依存症からの回復過程を当事者の視点で伝えた風間暁さん。その十代は、同書のあとがきで精神科医の松本俊彦氏が表現したように「疾風怒濤を生き延びた」と言えるものだ。風間さんへのインタビュー第2回では、依存症になった経緯や回復に至るまでの道のりを聞いた。(全3回)

幼少時から受けていた虐待

――幼少期は、どんな子どもだったのでしょうか。

 幼稚園の頃からクラシックピアノを習っていました。私は割と器用な方で、聞いた音はすぐに弾けたので、母はピアニストにしたいと考えていたようです。それで毎日、何時間も譜面読みを強要されました。「なぜ、こんなことをしなければならないのだろう。CDを聞かせてくれた方が弾きやすいのに」と思いながら耐えていました。

 「やりたくない」と私が抵抗するようになったあたりから、母の暴力、暴言が始まりました。私は口答えするし屈しないので、母の行為はエスカレートしていきました。手足を縛られ、口にガムテープを貼られ、納戸に閉じ込められることもしょっちゅうでした。もちろん食事も抜きです。

 でも、「つらい」とか「悲しい」とかいう感情はなかったですね。そもそもつらかったり悲しかったりするのは、「楽しい」とか「うれしい」と比較できるからなのかなと。この頃の私には、そういう感情の体験や記憶があまりありません。納戸ではただ時間だけが過ぎていきました。自分の頭の中で「宇宙の端っこって、どうなっているんだろう」と空想を巡らせたり、バレないように縄抜けを試みて、関節を外す練習をよくしていました。

不良仲間に支えられ「生きる実感」を得る

――小学校には通っていたのですか?

 ほとんど通えていません。母は対外的にはできた人でしたから、私が学校を休む理由は何とでも言えたと思います。父は仕事で不在がちだったので、助けを求めることもできなかったし、そもそも父には期待していませんでした。

 その後、私が小学4年生のとき、父は飲酒運転で交通事故を起こして逮捕され、母と離婚します。私と母は加害者家族として迫害を受け、引っ越しを余儀なくされました。母は仕事をしなくてはならなくなり、私は学校に通い始めました。当時、母からの虐待によってすでに「自分は生きている価値がない人間だ」という気持ちがあったので、クラスの中では友達をつくらないと決め、不良転校生を演じました。髪も染めて、転校デビューです。

 そうしたら逆に面白がられて、遊びに誘ってきてくれたヤンチャなグループに加わるようになりました。学校をサボってお酒を飲んだり、たばこを吸ったりしました。いわゆる学級崩壊も、私たちは引き起こしました。小学5~6年生の頃の話です。

 その時、「生きていてよかった」と初めて思えました。けんかも絶えなかったけれど、ヤンチャなグループの友達は皆、言語化が不得手でも、行動と感情がつながっていて、動きを見ていれば「うそがない」と、すぐに察知できました。うそばかりの大人と違って、行動が信頼できたのです。グループの友達も、それぞれ家庭でさまざまな問題を抱えていました。その中で私は「支えられていた」のです。ある種の自助グループと言ってもいいかもしれません。

さまざまな家庭環境の子が集まり「居場所」を形成していたと振り返る=撮影:市川五月
さまざまな家庭環境の子が集まり「居場所」を形成していたと振り返る=撮影:市川五月

薬物依存症の始まりは「居場所」を失ったこと

 ――その後、薬物依存症になった経緯を教えてください。

 そうした支えを失ってしまったことが、薬物にのめり込む始まりでした。中学1年の終わり頃に補導され、児童自立支援施設の寮で生活することになったんです。そこでは「自立」のための訓練的な生活をさせられたのですが、私はすでに解離性障害というトラウマに端を発した精神疾患を発症していて、その症状のせいで上級生から凄惨(せいさん)ないじめを受けました。

 精神科に通院するようになって診断がつくと、処方された薬をため込んで一気に飲む「オーバードーズ」を繰り返すようになりました。意識がなくなれば病院に搬送され、寮から離れられるからです。でも、それがだんだんとひどくなっていき、入院中に施設退所の手続きが取られました。

 その後、自宅に戻った私は再び元の仲間たちと遊ぶようになりましたが、処方薬の乱用をやめることはできませんでした。薬の効能が切れてしまうと、虐待やいじめの体験がフラッシュバックするせいです。地獄の苦しみでした。そうなると、あらゆる手段を使って薬物を手に入れようと考えるようになります。そこで、違法薬物にも手を出しました。その結果、だんだん仲間からも距離を置かれるようになり、ついには誰とも連絡がつかなくなってしまいました。一人で孤独に薬物を使うだけの日々です。そして、「このまま生きていても意味がない」と、手元にあった薬を全て使ってICUに運ばれました。2011年3月のことです。

 ――薬物をやめようと思ったきっかけは、何かあったのでしょうか。

 薬物をやめて生きていこうと思った直接の理由は、子どもを授かったことです。「子どもを傷つけたくない」という気持ちが湧いて、薬物やお酒をやめる理由と生きる理由ができました。初めての心からの自己決定でした。それで自ら病院の門をくぐり、徐々に回復していきました。

 ――薬物依存症からの回復、というだけでは表せない経験だと思います。

 薬をやめてから10年以上がたちますが、私は薬物依存症という病気から回復することは、個人の尊厳を取り戻すことと地続きだと考えています。私の場合、依存症になったのは、個人の尊厳が奪われ続けてきたからだと言えます。その傷をどうにかしないと、薬物使用が止まっても、別の依存対象で自己治療を試みるしかありません。今の主治医や仲間たちは、「どうなっていきたい?」「どう思う?」などと、私の意思や考えを聞いてくれ、尊重してくれます。個人として大切にされている実感が、回復を支えてくれていますね。

薬物依存からの回復は「人としての尊厳の回復でもある」と話す=撮影:市川五月
薬物依存からの回復は「人としての尊厳の回復でもある」と話す=撮影:市川五月

【プロフィール】

風間暁(かざま・あかつき) 特定非営利活動法人ASK(アルコール薬物問題全国市民協会)社会対策部。ASK認定依存症予防教育アドバイザー。保護司。自らの経験をもとに、依存症と逆境的小児期体験の予防啓発と、依存症者や問題行動のある子ども・若者に対する差別と偏見を是正する講演や政策提言などを行っている。2020年度「こころのバリアフリー賞」を個人受賞。共著に『「助けて」が言えない 子ども編』(松本俊彦編著、日本評論社、2023)など。

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