本紙電子版4月19日付で報じられているように、中教審特別部会は同日、公立学校教員の月給に4%を上乗せした額を支給する教職調整額を10%以上にするべきだとする審議まとめ素案を示した。この提言に私は、「あまりにも教員という仕事をなめているのではないか」と感じている。
教員の仕事は、子ども同士がつながり合いながら、トラブルがあっても笑顔で「じゃあ、また明日」と学校を去り、次の日また元気で「おはよう」と来るのを見守ることだ。そういう子どもの姿を目の当たりにしつつ、教員自身も元気にしていられれば、「こんな仕事はしんどい」とは言わないだろう。
今の日本社会における学校現場がそういった状況にないから、働き方改革の必要性が訴えられるようになってきたわけだが、働き方改革はあくまでも手段であって目的ではない。教員の働き方改革の目的とは、若者が「先生になりたい」と思えるようになること、そして教員が「生まれ変わっても先生になりたい」と思えるようになることだ。そのための手段を考え、実行することで、教員が仕事を「楽しい」と思えるようになるというのが、働き方改革の目指すところだ。
にもかかわらず、国が今進めている働き方改革では、その目的が論じられていない。「教員のなり手がいないから4%を10%に上げよう」。これでは、若者をばかにしていると言わざるを得ない。「1~2万円ほど月給が上がったらみんな喜んで先生になる」などと、教員の仕事の神髄を理解しておらず、浅慮に過ぎるというものだ。
若い方々には初耳かもしれないが、かつて学校では、当時で言う「障害児学級」や「個別支援学級」を受け持ったら、通常の給与に上乗せして「調整額」が支給されるという時代があった。特別支援学校などに勤務すると支給される手当とは異なるものだ。「障害児を受け持つ教員を増やさなければ」という考えで、障害児学級などの担任をすれば給与にプラスアルファで支給するという給与改定だった。
その結果、現場はどうなったか。障害児学級が、教育への意欲がほとんどない教員の居場所になってしまったのだ。調整額により給与が増額されているから、退職金や年金の支給額も増える。それを狙って、定年退職を前に「もう通常学級の担任はできない」と言う教員が障害児学級を希望するというやり方が横行した。「障害児を担任するのは大変だから、教員は嫌がるだろう」という差別意識が招いたこうした事態に、現場から異を唱える声が上がるようになって、調整額は廃止となった。
この例にもある「給与アップで問題を解決しよう」という失敗は、これまで何度も引き起こされてきた。にもかかわらず「教職調整額を上げよう」などという策を講じるのは、過ちの繰り返しだと言わざるを得ない。
国が今進めようとしている教員の働き方改革は、本来の目的を一切追求していない。「時短しよう」「勤務時間を減らして給与を増やして時給アップだ」。それで教員を志望する若者が増え、精神疾患に陥る教員がいなくなり、教員の離職率が下がるなどと捉えているとは、こんなに現場の教員をばかにした話はないと私は考えている。
学校の最上位の目的は、全ての子どもの学習権を保障することだ。そのために教員の働き方改革がある。この目的を達成するための手段が必要で、目的と手段は明確に分けなければならない。「時短」「時給アップ」が目的になったら、本来の目的である「全ての子どもの学習権の保障」は確実に置き去りにされていくだろう。
今年1年は、日本の学校教育がこれから進んでいく方向を定める上で、非常に大きな意味を持つ年になると私は考えている。「教職調整額をアップしよう」というのは氷山の一角だ。「主幹教諭と一般教諭の間にポストを新設して、給与を増額しよう」「教員への人事評価を給与に反映させよう」といった策もあるようだが、これらの策に見られる、あたかも給与を餌にして教員を格付けするかのような仕組みでは、多様な教員のチーム力で子どもたちを育てる学校はつくれないだろう。「立場の強い教員が弱い教員に対して偉そうにものを言う」「管理職の望みどおりの仕事ができれば給与が上がり、低く評価されたら給料も一番下」。そんな状況に学校が陥る中で、チームに居場所をもてなくなる教員が増えるのではないか。そうなれば教員は学校を辞め、子どもも学校に来なくなってしまうと私は考えている。
では、教員の働き方改革は今後どうあるべきか。この点については次回のオピニオンでお伝えする。