主体的・対話的で深い学びの実現においては、「人間の生涯にわたって続く『学び』という営みの本質」を捉えることが大切である。
人間の「学び」を巡って学習に関する近年の科学的研究が明らかにしてきた第1の洞察は、子どもは豊かな既有知識を携えて学びの場に臨んでいる、というものである。
子どもは乳幼児期から、自ら進んで環境に関わり、環境との相互作用の中でさまざまなことを学んでいる。そして、就学時にはインフォーマルな知識とか素朴概念と呼ばれる膨大な知識を所有している。これを授業に生かさない手はない。
例えば、小学3年生に「靴のサイズ」を尋ねると、20、21、そして20.5といった声が上がる。ここで「テン5って何」と尋ねると、「20と21の間」と答えるから、「20個と21個のリンゴの間に数なんかあるの」と聞くと、「リンゴにはないけど靴にはある」「リンゴも半分に切ればある」「それは分数なんじゃない」などと、実に面白いことを言う。中には「20.5は20センチ5ミリのこと」と答えられる子もいて、そこまでは知らなかった子たちも、「ああ、そういうことなんだ」と納得する。
「僕はおとといから20.5」という子がいて、聞くと「靴を買いに行ったら、それまで履いていた20がキツキツで。おじさんが『もう1つ大きいのを』と言って持ってきてくれたのが20.5で、それがちょうどよかったのね。おじさんは『試しに』と言って21も持ってきてくれたんだけど、21はブカブカで、だから僕はおとといから20.5の子になったんだよ」と言う。このキツキツ、ちょうどいい、ブカブカという誰しもが共感できる身体感覚が20、20.5、21という数字の並びと対応しており、ここから子どもたちは整数の間にさらに数が存在し、それがどうも小数というものらしいと理解する。
しかし、靴のサイズだけではこれ以上の発展は望めない。そこで、次に体重を尋ねる。すると、30.2とか29.7といった声が上がるから、「あれ、テン5じゃないのもあるの」と聞くと、自分たちの体重の数値を根拠に「テン1からテン9まである」と言う。
ところが、一人の子どもが不安げな表情で「私は30.0なんだけど」と訴えた。途端に、テン0はテン1からテン9と同じなのかが、クラス全員の関心事、解決すべき問題となる。仲間とはありがたいもので、何とかテン0もテン1やテン9と同じだという論理を生み出そうと懸命に考えてくれる。
ちょうど陸上の世界大会が開催されていて、100メートル走で日本人初の9秒台が出るかどうかに注目が集まっていた時の授業だったこともあるのだろう。ついには、「100メートル走でも、コンマ何々秒の差で金メダルと銀メダルの違いになってくるでしょ。その時、記録が10秒00だったとしても、もっと細かなところまで計ろうとしたというのが大切で、結果的に10秒00になったからと言って、10秒と同じじゃない。だって、10秒というのは、9秒の次は10秒、その次は11秒って計り方をしたということだから。体重もそうで、30.0キロと30キロは重さとしては変わらないんだけど、それは結果としてそうなっただけで、やっぱり30.0と30では意味が違う。だから、テン0はテン1やテン9と同じだと言えると思う」といった、小数概念の本質的理解へと連なる意見が飛び出す。子どもたちは拍手喝采、不安そうに訴えた子にも満面の笑みがこぼれる。
このように、すでにある程度知っていることとの関連が見えれば、子どもは「あっ。そのことね」「知ってる、知ってる」となり、緊張や不安を抱くことなくリラックスして、だからこそ主体的に学びに向かうことができる。
また、「私はこう思うよ」「こんなこともあったんだ」「だったらさあ」と、各自のエピソードや考え、疑問や予想を出し合い、その全てがつじつまの合う状態を求めて、対話的・協働的に学びを深めていくだろう。
さらに、よく知っていると思い込んでいるからこそ、お互いの知識をすり合わせ、整理していく中で、「何か変だぞ」「分からなくなってきたけど、何とかはっきりさせたい」「もしかすると、こういうことかな」「やっぱりそうだった」と、粘り強く学びを深め、ついには正確で統合的な概念的意味理解、すなわち深い学びへと到達できるのである。
「知識を教える」とは、「白紙」である子どもの心に教師が意味や価値を「書き込む」ことではない。子どもたちがすでに持っている、いい線は行っているが不完全で未整理な知識を、子どもたち自身の力で主体的・対話的に「構成」していけるよう教師が支えることである。現行の学習指導要領は、このような学習観や知識観の転換を求めている。