あなたの学校の通知表には、「行動の記録」を評価する欄があるだろうか。「大きな声であいさつができる」「話を聞くことができる」「忘れ物がない」「整理整頓ができる」――などである。
指導要録の方で「基本的な生活習慣」「体力の向上」「自主自律」などの評価をしなくてはならないため、残っている学校も多いのではないだろうか。私が行かせていただいている自治体で聞いたところ、聞いた全ての自治体で行動の記録を取っていた。
では、「大きな声であいさつができる」というのは、どうやって評価しているのだろうか。毎日大きなあいさつをしているときに、教員が評価しているのだろうか。それともテストのような日を決めて、大きな声であいさつをして評価しているのだろうか。どちらにしても、適しているとは思えない。
次にもらう方の立場を考えてみよう。1学期の終わり、児童生徒は担任から通知表をもらう。もらって成績を確認した後、行動の記録を見る。「大きな声であいさつができる」に△がついている(または「もうすこし」に○がついている)子供は何を思うのだろう。
「大きな声であいさつできなかったな。2学期からは、先生たちやみんなに大きな声であいさつをしよう」と思う子はいるのだろうか。まずいない、と私は思う。少なくとも私は「大きな声であいさつができる」に△がついたら、これからあいさつする気にもならないし、「この担任はぼくのこと、好きじゃないんだな」と、担任不信になるだろう。
では、○をもらった子はどうだろうか。「大きな声であいさつができる、に○がついているよ!」と喜ぶ子はほとんどいないだろう。今までずっと△だった子を除けば、そこに○がついているのは当たり前だからである。
そして、この項目はほとんど大きな声であいさつをしない子であっても、○をつける。明らかに小さな声であっても、輪を乱したり、友達に迷惑を掛けたりしていなければ、○をつける。私も担任時代、疑問を感じながらも○をつけていた。行動の記録はつけなければいけないもの。それが当たり前だからで、疑う余地もなかった。反省である。
「行動の記録」をつけるメリットは何なのだろうか。全国のほとんどの小学校・中学校で評価されているということは、何かメリットがあるはずである。
まず「行動の記録」をつけることで、児童生徒の日常の態度や行動の傾向を把握しようとする気持ちになる。この情報は、保護者や次年度の担任にとって貴重である。なぜなら、子供の成長や改善点を具体的に理解し、より適切な支援を提供する手助けとなると考える人がいるからだ(私はそうは思わないが)。
さらに日常の小さな行動に注目することで、子供たちに社会的なスキルの重要性を教える機会が増える。例えば、「大きな声であいさつができる」という評価項目は、社会における基本的なコミュニケーション能力を育む上で重要である。
しかし、先ほど述べたような現状を踏まえれば、これらのメリットが本当に有効に活用されているかどうかは、疑問が残る。つまり通知表の「行動の記録」では、有効に活用することなどできないのである。適切な評価基準やフィードバックの仕組みが整っていなければ、「行動の記録」は形式的なものにとどまり、実際の教育効果を発揮することは難しい。
最近では周知の事実かもしれないが、通知表を保護者に提出する義務は、法律で定められているものではない。多くの学校が保護者とのコミュニケーションの手段として通知表を使用しているが、その形式や内容は各自治体や学校の裁量に委ねられている。このため、現在の形式が最適かどうかを再検討する必要がある。
子供たちの真の成長をサポートするためには、現行の通知表の在り方を見直し、改善を図ることが求められる。周りの学校が所見をなくしたから、本校もなくしていい、というものではない。ましてや教員の働き方改革のためだけであったら本末転倒である。「個人面談でしっかり伝える方が効果的だから、所見をなくす」など、明確な理由を提示する必要があるだろう。
これからの時代を生きる子供たちにとって、今まで通りの成績評価や行動記録だけでは不十分である。21世紀に求められる力を育むための通知表に変化させるべきだ。それはテストの結果をその日に点数として伝えるものかもしれないし、子供の良い作品を保護者にデータで送ることかもしれない。さらに言うなら、定期的に保護者のメールに子供の頑張りを伝えていけば、通知表はいらないと私は考える。
新しい時代に対応したフィードバックの方法を導入することで、子供たちは自分の強みや課題をより深く理解し、自己成長へのモチベーションを高めることができる。具体的には、学業成績だけでなく、プロジェクト活動やクリエーティブな課題への取り組み方など、幅広い視点から子供たちを評価することが重要である。これにより、子供たちが自分の能力を多角的に見つめ直し、自信を持ってこれからの社会で活躍できる子を育てることにつながるのではないだろうか。