間もなく夏休みに入る。長期休みが明ける時期というのは、学校への行き渋りが心配にもなるが、登校できていなかった子が学校に復帰するチャンスでもある。依然として学校にとっての最重要課題である「不登校」について、大空小学校で最も対応に苦慮した1人の子から、私たちが学んだことについてお伝えしたい。
私が校長を務めた9年間で、大空小には50人を超えて、登校できない状態にある子が全国から転入した。その中に、5年生になった1学期の途中から転入してきた子がいた。仮にAとする。Aの母は大空小にAを転入させるため、夫と別居して引っ越してきて、1つの部屋にAと2人で住んでいた。しかし転入後もAが登校できない状態は続いたため、大空小の教職員がAの家を訪ねるようになったが、そうするとAはトイレに閉じこもってしまった。
大空小にはさまざまな子が通っていて、教職員はその子たちから多くを学んでいたし、多様な教職員がいて、皆がAについて考え何とか力になろうとしたが、Aは閉じこもったままだった。「このままでは教職員が疲弊する」と考えた私はある日、Aの家を訪れて「大空小の先生が来るのは、これが最後だよ」と伝えた。こういう宣言をする人は、子どもや保護者から恨まれることになってしまうから、その役割を引き受けるのは校長の責任だと考えていた。
もちろんただ突き放したのではない。「ここからは私の独り言だよ」と前置きして、「自分が学ぶかどうかは自分が決めること」と話した。「家に来た先生と会わなくてもいい。でも、一度も行っていない学校のことを『行かない』と判断するのは、すごく残念な気がする。一度学校に来てみて『無理だ』と思ったら、『この学校に自分は行かない』と判断すればいい」と伝えた。
翌日、Aは自分で学校に来た。時刻は午前10時20分、場所は職員室だった。私たち教職員は「Aが来るといい」と思っていたし、Aが職員室の扉を開けた時には「わあ、来た!」と内心喜んだが、そんなそぶりや表情は一切見せずに「おはよう」と出迎えた。私は職員室内の黒板に「10時20分、おはよう」と記入し、「何時に帰るの?」と尋ねた。Aが「10時半」と答えたので「OK」と応じて「10時30分、さようなら」と書き加えた。
1日目は職員室に立っていただけだった。私たちは「役に立つことがあったら言ってね」と声を掛けたし、目と気持ちはAの方に向いていたが、全くの無関心を装った。10分たってAが黙って職員室を出て行こうとしたので、その時だけ「知らないうちにいなくなったら、私たちは心配して追い掛けて探す。でも『帰る』とか『じゃあね』とか、一言あれば安心する」と伝えると、「帰る」と言って去った。
その後、他の教職員から「何時に帰るの?」と聞いた理由を問われた。私がAの気持ちになって想像したのは、「いったん学校に入ったら帰らせてもらえないのでは」という不安を少しでも抱いたら、もう学校に来なくなるのではないかということだった。しかし「自分の意思で学校に来て、自分の意思で帰る時間を決める」と思えたら、安心してまた学校に戻れると考えた。
2日目、Aは来た。10時15分に来て「10時40分に帰る」と私に伝え、職員室内で教職員が給食やお菓子などを食べるテーブルに着き、じっと座っていた。3日目は10時10分に来て、また同じテーブルに着き、ウェットティッシュをかばんから取り出してテーブルを拭き始めた。「ごめん、私らが汚したから。手伝おうか」と声を掛けると「いい」と言い、ピカピカにして10時50分に帰って行った。
4日目は10時に来た。帰る時刻を聞くと「後で決める」と言うので、「自分で黒板に書いてね」と伝えた。この日は国語の教科書を出して、音読を始めた。きれいな声で上手に読んでいたのでそう伝えた。そこからは音読する日がしばらく続き、在校時間も日に日に延びていって、昼食も職員室で取るようになった。Aは食物アレルギーがあったので給食ではなくお弁当を持参し、私たちと一緒にテーブルで食べた。
秋になってもAはほぼ毎日職員室に来ていた。もうすぐ運動会という頃、「この学校はいろんな委員会があって、運動会も子どもが自分たちで作っていく」と説明し「どうする?」と聞くと、「本部席にいる」と答えた。運動会当日、本部席では5・6年生がアナウンスの仕事をしていたが、この2学年が合同で出る種目になり本部席からいなくなるタイミングがあった。そこでAに「アナウンスしてみる?」と投げ掛けると、すぐに応じた。Aのアナウンスは感情がこもっていて、まるでドラマを演じているようなオリジナリティーがあった。
その様子を見た私たちはつい欲が出た。「もしかしたら教室に行けるんじゃないか」と思ったのだ。しかしそれは失敗だった。そういう雰囲気を見せたり誘導したりしようとすると、Aは固まってしまった。もちろんこの誘導がその子にフィットすればいいが、教職員が子どもの気持ちを理解したつもりで動くとほぼ失敗する。Aの通学はそこから後戻りした。しばらくして職員室には来るようになったものの、他の場所は少しうろうろするだけだった。それも「職員室に戻れる」という安心感があるから行けるようで、少し進んだらまた少し後戻りするというのを1年半繰り返した後、Aは卒業を迎えることとなった。
そこでAに「卒業式どうする?」と尋ねたところ、Aは1人だけの卒業式を選んだ。私は全体の卒業式が終わった後、別室で執り行うようなイメージでいたが、実際に当日になって、午前中に全体の式が終わってからAだけの式に呼ばれて行くと、会場は体育館で、全体の式と全く同じシチュエーションになっていた。教職員は全員きちんと式服を着て、スタンバイしていた。
私が一瞬泣きそうになったところで音楽がかかり、教職員の拍手の中でAが1人で入場した。後から付いてきた両親はサポーター席に座り、卒業証書授与と教職員全員による合唱があった後、他の卒業生と同様にAも卒業に当たってのメッセージを語った。それは、「もう自分は大丈夫です」というA自身の言葉だった。それまでAが自分の言葉で語ることはとても少なかったのでびっくりしたが、初めての感謝の言葉を自分で言い、「地元の中学校に行きます。心配しないでください」と話して、教職員の花道を通って1人で出て行った。
この全教職員による卒業式は、「Aのためにやってあげた」というものではない。「自分たちが育ててもらった」という、Aに対する感謝の気持ちからだ。Aが1年半いたおかげで、大空小では周りの子どもも大人もサポーターも大きく育った。Aが大空小で過ごす様子を「何も特別なことではなく、自分でいる場所や時間を決めるのは当たり前のこと」と理解できるようになることが、学校の空気を豊かにした。だから卒業式でも、他の子どもたちから「卒業式をどうするかはAが自分で決めたらいい」という声が自然に出て、教職員もAのためだけの卒業式を、当たり前に全員で挙行できたのだ。
「いい学校だから安心しておいで」という言葉を、大人や子どもが伝えることより大事なのは、環境をつくることだ。子どもが主語になっていて、子どもが自分で考えて決める空気が自然と流れている環境。それがうまくできなくても皆でやり直していけば、その失敗が成功体験に変わる。それが学校の意義だと私たちに教えてくれたのが、Aが大空小にいた1年半だった。
では、子どもが「不登校」になる背景に何があるのか、全ての子どもの学びを保障する学校はどうあるべきか。それらは次回のオピニオンでお伝えする。