【青春を詠む高校教師】 失意の日々を短歌に救われる

【青春を詠む高校教師】 失意の日々を短歌に救われる
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 現在、横浜サイエンスフロンティア高校で国語を教える千葉聡さんだが、若い頃は小説家を目指すも評価されず、苦しい時間を過ごしたという。教員採用試験にもなかなか合格できず、悩む日々が続く中、短歌を詠むことで道が開けていったという。インタビューの2回目では、短歌との出合いや教員になるまでの紆余(うよ)曲折を聞いた。(全3回)

シンガポールの日本人学校で教員に

――千葉さんが詠む短歌の題材は学校が中心ですが、最初からそうだったのですか。

 20代の最後に新人賞を取ってデビューしたのですが、それ以前から青春のことばかり詠んでいました。でも、30代にもなると少しずつ青春を詠みづらくなります。苦しんだ時期も長かったのですが、学校のことを詠んだ短歌が載った雑誌を生徒たちに見せると、すごく喜んでくれたのです。だったらガンガン学校について詠もうと思いました。

 生徒に読んでもらうと思うと、やはり良い歌を詠まなければと思うし、ただものごとの良い部分ばかりを取り上げてもいけません。現実をちゃんと見ながら良い部分をすくい上げないと、生徒に駄目出しをされます。そういうところで、すごく鍛えられました。

――短歌との出合いは、いつ頃だったのでしょうか。

 20歳の誕生日の1日前、19歳の最後の日に大学の後輩の女の子がくれた誕生日プレゼントが『サラダ記念日』だったのです。発売されて2年後ぐらいで、話題の本とはいえ、自分はさほど引かれていませんでした。でも、帰りの電車で読み始めたら、とても引き込まれました。最後のページを読み終えたときには、1本の映画を見終わったような感覚になっていました。

 その後、俵万智さんのまねをしてみたいと思ったのですが、なかなか思うようには詠めませんでした。加えて俵さんは爽やかでマスコミ対応も上手で、短歌は自分とは縁遠い世界だと思ってしばらくは何もせずにいました。

 当時、私は小説家を目指していて、新人賞の季節になるとほぼ全ての文芸誌に書きためた作品を送るような毎日を送っていました。全然認められませんでしたが、ずっと書き続けていました。

 そうして大学を卒業する時期になって、横浜市の教員採用試験を受けたのですが、残念ながら落ちてしまいました。それで大学の就職課に泣きついたところ、「現地採用で給料は安いけれど日本人学校がある」と教えられて、試験を受けたところ合格し、シンガポールの日本人学校に着任することになりました。

シンガポール日本人学校で大きな転機が訪れたと話す千葉さん=撮影:市川五月
シンガポール日本人学校で大きな転機が訪れたと話す千葉さん=撮影:市川五月

――現地でも、短歌に関わる活動はしていたのでしょうか。

 海外の日本人学校の子どもたちを対象にした、「海外子女文芸作品コンクール」というものがあります。日本人学校の生徒が短歌・俳句と現代詩を書いて送ると雑誌に載るというもので、子どもたちはみんなで参加していました。

 それで、「みんなで短歌を詠もう」と声掛けしたら、「先生が先に詠んでよ」と言われたのです。「いや、俺はもう子どもじゃないから」と言うと、「本当に詠めるの?」と言います。どこか生徒たちに認められたい思いもあって、「これはちゃんとやらなければ駄目だ」と思い、朝日新聞の朝日歌壇に応募しました。すると、応募した1首がたまたま載ったのです。

 朝、学校に行ったら、校長先生がとても喜んで、朝会で「みんなで拍手しましょう」と言ってくれて、みんなから「おめでとう」「良かったね」と祝福されました。今思えば、大学を出てすぐの自分は授業もうまくいかず、落ち込むことも多かったので、そういう若い教員を学校全体で励まそうというキャンペーンだったように思います。

 赴任して3年目、最後の1年間は、朝日歌壇に13首も入選しました。学校だけでなく、現地の日本人会の事務所の掲示板にも自分の短歌が貼られていて、とてもうれしいものがありました。

 余談ですが、後年になって朝日歌壇の選者の佐佐木幸綱先生にお会いした時、なぜ何度も採用してもらえたのかを聞いたところ、「シンガポールのはがきは日本の官製はがきよりちょっとでかいから、いつも手に残るんだよね。それでつい採用しちゃったんだ」とのことでした。

 その当時詠んでいた短歌も、やはり学校の出来事を扱ったものが多かったですね。最初に載った短歌も、初めて担任になったときのことを詠んだもので、「われは教師われは教師と反芻し初担任の教室へ行く」でした。

歌人としてデビューも、特別選考で教員に

――赴任期間を終えて帰国後はどうされたのですか。

 3年間の任期を終え、帰国して再び横浜市の採用試験を受けたのですが、また落ちてしまいました。それで、「好きになった近現代短歌を研究しに行こう」と、親のすねをかじって大学院生になりました。そうして採用試験も受け続けていましたし、小説の新人賞にも応募し続けていました。でも、全然駄目でしたね。

 大学院は國學院大學で、短歌を専門に研究されている先生もいらっしゃったし、先輩も短歌研究新人賞や角川短歌賞に応募している方がいるような所でした。周囲に、朝日歌壇に採用されたと言っても「素人の投稿欄だよね」とばかにされるし、穂村弘さんが在籍する「かばん」という結社に入っているといっても、「若者の集まりで伝統的な結社じゃない」と話題にしてもらえませんでした。

 でも、自分が短歌好きだという思いだけは負けない自信がありました。そうこうして、20代最後の年に短歌研究新人賞に応募したら、入賞したのです。その短歌も青春群像を題材にしたものでした。もう20年も前の話になりますが、当時の歌壇は俵さんのブームも落ち着いて、応募作品の半分以上が文語定型の歌でした。

新人賞の作品も青春群像だったという=撮影:市川五月
新人賞の作品も青春群像だったという=撮影:市川五月

――俵万智さん以降、話し言葉による短歌がすごく増えたようなイメージを持っていたのですが、そういうわけでもなかったのですね。

 もちろん口語短歌が増えたと思いますし、自分も俵万智さんにたくさんの影響を受けました。でも、その当時の短歌雑誌は文語定型の作品が主流でした。ただ、先日初めて短歌研究の選考委員を務めたのですが、応募作品の9割が口語でした。時代とともに変わってきているのですね。

――一方で教員になる道も捨てず、採用試験も受け続けたのですね。

 大学院は博士課程に行ったとしても就職口がなさそうでした。それで博士課程後期の3年目に横浜市の教員採用をまた受けたのですが、ちょうどその年から特別な実績がある人を対象にした特別選考制度が始まったのです。試験の要項に「スポーツや文化的な分野」とあったので、短歌研究で新人賞を取ったことを志願書に書いて出したら一次試験を通過しました。

 でも、二次試験の会場へ行くと、他の受験者はみんな体育会系でした。「国体に行きました」「オリンピックの強化指定をもらいました」といった人たちばかりで、そんな中に身体の小さな自分がポツンといて場違いな感じでしたね。でも、無事に合格できてようやく教員になることができました。

「教員の特別選考ではみんな体育会系で、文系は自分一人だった」と当時を振り返る=撮影:市川五月
「教員の特別選考ではみんな体育会系で、文系は自分一人だった」と当時を振り返る=撮影:市川五月

【プロフィール】

千葉聡(ちば・さとし) 1968年、横浜市生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。國學院大學大学院文学研究科(博士課程後期)単位取得退学。98年、第41回短歌研究新人賞受賞。現在、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高校教諭。歌集に『微熱体』『今日の放課後、短歌部へ!』『短歌は最強アイテム』『グラウンドを駆けるモーツァルト』など、編著に『短歌研究ジュニア はじめて出会う短歌100』などがある。今年7月に『飛び跳ねる教室・リターンズ』(時事通信社)が刊行された。

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