学校に「寛容」の連鎖を回そう 起点は誰でもいい(澤田真由美)

学校に「寛容」の連鎖を回そう 起点は誰でもいい(澤田真由美)
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教育委員会の寛容さが校長へ、教員や子どもたちへと波及する

 「先生は/学校は失敗できない」と、年に数回は聞く。ある時は退職した校長先生が熱心に、ある時は現職校長先生や教務の先生たちがしみじみと。とある学校の教職員同士の対話会で、職場に欲しいものを話し合った際に多く出てきたのは、「気楽さ」だった。

 私は主に学校の働き方改革のために、学校や教育委員会に数多く関わっている。関われば関わるほどに、学校の内外で双方向の寛容な文化の醸成が必要だと感じる。寛容をいくつかの辞書で見るとおおむね、「心が広く他人の言動を受け入れること。他人の失敗を厳しくとがめないこと」とある。

 教育委員会が校長に寛容だとどのようなことが起こるだろう。

 滋賀県湖南市の松浦加代子教育長は、「校長笑顔率世界1位を目指す」として、「やっちゃえ、校長!」「もしも何かあっても全力で守ります!」と背中を押し、「校長は一国一城の主」と勇気付けている。校長からは、「決定を大事にしてもらえることは本当にうれしく、安心して、そして本気で子どもたちや保護者と向き合える」の声。校長の安心感は、その先にいる子どもたちにも波及効果がある。

 もしこれが逆で、「何をするにも許可を得ること」「もしも何かあったら学校のせいにします」だったらどうだろうか。「教育委員会の姿勢」→「校長の受け止め」→「教職員や子どもの伸びやか度」は地続きだというのが私の見立てだ。

「失敗」「挑戦」を行動指針にした町役場

 ある地域の夏祭り。

 祭りの盛り上げを生徒が企画から実行するまでを、地元の中学校の総合的な学習の時間に組み込んで、祭りの実行委員である地域の人たちが計画段階から当日まで協力している。生徒による企画プレゼンの審査は地域の人が担うのだが、生徒たちへの寛容さに先生たちは喜んだ。

 「教員だと、どうしても失敗させないようにと生徒に制限をさせたりお膳立てしたりしてしまうが、地域の人は『それでいい』『思うようにやってごらん』と言ってくれる。おかげで教員も生徒におおらかに関われる」と。地域の人々の寛容さが、先生たちの寛容さ、その先にある生徒たちの伸びやかさや、失敗も含んだ成長につながる。

 自らが自らに寛容であれるようにしたまた別の例は、奈良県三宅町。町役場のバリュー(行動指針)は「対話」「挑戦」「失敗」だ。

 自治体が自ら「失敗」を謳(うた)うのは珍しい。三宅町によると、「公務員の世界では、失敗が許されず挑戦を良しとしない雰囲気がある。そこでバリューに『失敗・挑戦』を加え、挑戦をした結果の失敗を糧に、成長できる組織を目指している」とのこと。

 そんな三宅町は日本で2番目に狭い町ながら、住民の幸せにつながるアイデアを次々と実現させて存在感を放っている。

「お試し」で物事が進み出す

 学校の業務改善を進める際、やってみたい案があるがなかなか踏み切れないという悩みは多い。踏み切れなさの理由は「これまでと変えてもいいのだろうか」「反対意見があるから」などとさまざまだが、突き詰めれば「うまくいかないのではないか」「失敗したくない」という不安であることがほとんどだ。

 ハードルを心理的にも物理的にも下げる寛容さの象徴が、「お試し」だ。「戻してもいい」「小さくても不完全でもやってみてよい」という考え方・やり方だ。つまり、うまくいかなさを受け入れる器をはじめから広げておくということだ。

 実際、「お試しでいいなら」と、「まずは1回試してみよう」「この期間だけ(例:1カ月)」「この対象だけ(例:2学年)」としてみると、物事が進み出すことが多い。

 例えば最近も、これまでと違う時程をまず1カ月間試し、修正してまた試すというサイクルを何度か回したり、全員参加だった会議を学年1人、案件に直接関わる人だけ、自己判断で参加――などと試してみたりした学校もあった。

 「駄目なら戻したっていいよね」と自分たちに対して寛容になれると、業務改善は伸び伸びした活動になり、失敗も吸収しながらむしろ前に進んでいく。

 もちろん、命や人権に関わることなどの、許容してはいけない間違いもある。だがほとんど多くのことについては、もっと気楽におおらかに構えてもいいのではないだろうか。

 失敗を許さない非寛容さは、そこにいる人にプレッシャーと非寛容さを生み、その先の人にまたさらにプレッシャーと非寛容さを生む。

 負の循環は、正の循環に回し直したい。

 特に学校は、成長途中の子どもたちが過ごす場所だ。非寛容はそぐわない。

私たち一人一人が寛容の種をまき続けよう

 先ほど、教育委員会の姿勢が学校に影響すると述べたが、実は続きがある。教育委員会は議会の、議会は市民の影響を受けている。市民とは学校の地域住民であり、保護者でもあり、学校と影響し合っている。

 影響の連鎖は大きな円を描き一周する。また影響は、一方通行や円の隣同士で与えるだけではなく、双方向であるし、細かくつながり合うクモの巣だ。

 では、一体どこを起点に正の循環に回し直せるのか。政治家や校長が起点となれば効果は大きいかもしれない。

 が、しかし、そうした人たちと話すと、政治家であれば「民意」、校長であれば「教職員や保護者の声」に大きな影響を受けていることがよく分かる。もはや「卵が先か、ニワトリが先か」のような話になる。

 起点探しをするよりも、起点は誰からでもできると考えたい。

 市民から学校や行政までが、影響し合い、目には見えない暗黙の文化を確かに作っていることを自覚し、一人一人は小さいかもしれないが、私たちこそが寛容の種をまき続けることが大切ではないだろうか。

 負の連鎖を正の連鎖に変え、働きやすく生きやすい社会や組織を創るのは、私たち一人一人だ。

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