自分自身の夏休みを利用して、ある小学校で移動教室の引率のお手伝いをしてきた。昨年に続き2回目だ。もちろん、先生たちのお手伝いをしたいという気持ちもある。しかし同じくらい大切にしているのは、子どもたちや先生たちの考えの変化を肌で感じ取ることだ。
今回もさまざまな気付きがあった。
小学校の移動教室といえば、古くから登山やハイキングが定番である。自然と触れ合い、体力を養うことが目的であることが多いが、単に「やらせる」だけでは、十分な学びや楽しさを提供できない。今の子どもたちは、何かを「やらされる」ことに敏感だ。やらされる主な目的が「忍耐」や「努力」なんかだと、やりたがらない。
学校によっては、1日目に登山やハイキングを入れることも多い。その目的が「疲れさせることで夜、早く寝るから」という理由を聞くことがある。「疲れないと寝ずに、悪さをするかもしれないから」と、さも当然という感じで話す先生もいる。
移動教室の目的が、問題なく帰ってくることになってはいないだろうか。教師は、児童にどんなトラブルがあっても失敗を経験に変え、思い出を作ることを目的にしているだろうか。教師のスタンスが子どもたちや保護者に伝わり、信頼関係を失ってはいないだろうか。
これまで私が参加してきた移動教室では、就寝後30分から1時間は、児童が寝ているかどうか、教師が廊下で取り締まることがほとんどだった。夜中の12時まで先生たちと分担しながら取り締まったこともある。その結果、子どもたちが深夜3時ごろに起きて廊下で走り回っていることもあった。取り締まれば取り締まるほど、抜け道を探すのが子どもたちである。
今回参加した学校では、自主性をとても大切にしていた。就寝も「寝なさい」と声は掛けるが、最低限の取り締まりしかしない。教職員は打ち合わせをした後、早めに就寝していた。取り締まっていないから悪さが起きることもなかった。もちろん暗くした中で話していた子はいただろう。しかし、これは取り締まっても同じことである。「先生、寝られなかった」という子はいたが、私が見た限りよく寝て、朝もよい顔で起きていた。
厳しく取り締まると、子どもたちは反発し、かえって規律を乱す。教師たちが決めた「ルール」を押し付けることで、児童は自らの判断で行動する余地が奪われ、反抗的な態度が助長されるのである。
今回は、キャンプファイヤーでも自主性が感じられた。
従来のキャンプファイヤーは、教師がある程度、流れやダンスを教えて進行する形式が一般的であろう。しかし今回は、子どもたちが自ら考え、計画していた。ダンスも歌も、グダグダする感じはあった。しかし子どもたちはとても楽しそうであった。
児童主体で行うと「精度」は下がるかもしれない。しかし、その中で子どもたちが学ぶ「自主性」や「創意工夫」は、教師主導の完璧なプログラムでは得られない価値を持つ。完璧を求めるのではなく、あえて不完全なプロセスを、教師がどれだけ受け入れるかが大事であると感じた。
今思えば、かつての私は自分の達成感のためにキャンプファイヤーをしていたと反省した。率先して火の神をやり、自分で仮装し、子どもたちの好きそうな感動的な音楽をかけ、「こうやるものだ」と伝えていた。その結果、卒業文集などで思い出に書いてくれる子もいたが、あくまでそれは与えられた思い出であり、自分たちで作り上げた思い出にはなっていなかった。
教師が企画する行事は、予定調和になりがちである。確実に進行し、トラブルが起きないようにすることを重視するあまり、子どもたちが自らの創意で参加できる余地を奪っている。教師のレールに乗せた行事ではなく、子どもたちが主体的に考え、自らのアイデアを実践する場を設けることが重要であると考える。
シェフが最高級の食材を使い、最高の料理を提供する。これを「レストラン型」と呼ぶことにする。
学校現場で起きていることのほとんどが、レストラン型になってはいないだろうか。教師が授業を教える。分かりやすい教材を用意する。教師が問いを用意して、子どもをレールの上に乗せる。
時にはレールから外れたように見せかけながらも、それを含めて教師のレールの上を走らせ、授業や行事の後には、安全なところに着地する。これで本当に子どもたちがこれからの予測不可能な時代を生きていく子に育つのだろうか。教師の正解は本当にこれからの時代の正解なのだろうか。
学校の行事も授業も、レストラン型からバーベキュー型に変えていくべきだ。
自分たちで創意工夫しながら料理を作る。時には焦げているかもしれないし、おいしくないかもしれない。それでも自分たちで作った料理は思い出に残るはずだし、やっぱりおいしいはずだ。今回のキャンプファイヤーがまさにそうだった。教師が流れを主導した方が、出来栄えはよかったかもしれない。しかし、子どもたちが主体となって行ったからこその笑顔が、そこにはあった。
昔ながらの「厳しい取り締まり」が本当に効果的なのか、今一度考え直す必要がある。移動教室という場で、規律を強調することが、子どもたちの反発を招き、学びを妨げてしまってはいないか。
教師の役割は、子どもたちに「何かを教える」ことにとどまらない。子どもたちが自ら考え、学びを深めるための環境を整えることこそが、本来の使命である。移動教室のような特別な場では、教師自身が「楽しい」「素晴らしい」と感じる瞬間を大切にし、それを子どもたちと共有することが、彼らにとってかけがえのない体験となる。既存の枠にとらわれず、今目の前にあるものを最大限に生かし、学びを再構築していくことが必要だ。
移動教室に参加して、改めて教師の楽しさを感じた。授業も行事も子どもたちとつくる。教師の「〇〇すべき」を捨て、子どもたちの「〇〇したい」を大切にする。取り締まることでレールに乗せることが本当に必要なのか、改めて考える時期に来ている。