財務省と文科省 どちらも本質から目を背けている(喜名朝博)

財務省と文科省 どちらも本質から目を背けている(喜名朝博)
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現場に責任を転嫁しようとする昨今の行政

 働き方改革の推進を条件に給特法の教職調整額を段階的に引き上げ、10%に達した段階で時間外勤務に見合った残業手当を支給することを検討するとした財務省案。教職調整額を13%にするとしていた文科省はすかさず反論し、教育関係23団体も緊急声明を発表した。全国知事会も財源確保について文科省に申し入れをしている。

 しかし、その文科省も、校長の人事評価に働き方改革に関する観点を導入し、教員の在校時間を自治体ごとに公表することを目指すとしている。財務省と文科省、どちらも問題の本質から目を背け、現場に責任を転嫁しようとする昨今の行政にありがちな話だ。

給特法と学校の働き方改革は別問題

 いまさら説明するまでもなく、1971年に制定された給特法は、その当時の平均超過勤務時間である月間8時間に相当する額として、教職調整額を4%上乗せするとしたものだ。以来、50年以上その額は変わっていない。文科省は勤務実態調査を通して超過勤務の実態を把握しており、数年ごとに1%ずつでも改善することができたのではないか。いきなり13%というのは、いかにも戦略に欠ける。

 一方、仕事量に見合った給与が支払われるのは当然のことである。実態に合わせれば20%アップでもおかしくない。もちろん、学校や社会の中に「遅くまで仕事をする先生はいい先生」という見方があったことも否めず、仕事の仕方には目を向けてこなかったことは、学校も反省しなければならない。

 それにしても、教員の業務が自主的、自律的なものだからといって過労死ラインを越えて仕事をしなければならないのは、やらなければ授業や学校運営に支障があるからなのだ。やらざるを得ないのである。この問題の根本は、仕事の量と人の数が見合っていないということに尽きる。

 教員の仕事が増えているのは教育課程だけの問題ではなく、子どもたちや保護者への対応が増えていることによる。さらに、若手教員や経験の少ない教員の増加によって、相対的に学校力が下がっているという実情もある。

教職調整額と「乗ずる数」の計画的な改善こそが戦略

 公務員の勤務時間は7時間45分。子どもたちの在校時間を6時間とすれば、1時間で授業準備や学級事務、諸会議をこなすことになり、物理的に不可能である。45分間の休憩時間も休んではいられない。働き方改革を進めるには、この仕組みを変えなければならない。

 勤務時間内に所定の業務を終えるには、持ちコマ時数を削減し、空き時間を増やすことが必須である。空き時間に学級事務や授業準備を行うだけでなく、中学校が実現しているように、空き時間を調整して会議の時間をもつこともできる。

 さらに、学校教育法施行規則別表第1の「35週」を基準とした示し方もやめ、6時間授業という固定観念からも脱却したい。そのためにも、義務標準法の「乗ずる数」(教員定数を計算する際、学級数に乗ずる係数)の改善が求められる。毎年要望が必要な加配定数の確保ではなく、基礎定数を上げて行くことで安定的な人材確保につながる。

 教職調整額と「乗ずる数」、この2つの数字を計画的に改善していくことが戦略だ。財源がない中で、結局は優先順位の問題となるだろう。目の前の問題も重要だが、教育は日本の未来を創っていくという中長期的展望も忘れてはならない。

次期学習指導要領は内容を精選すべき

 その意味でも、次期学習指導要領はこれからの教員の働き方に大きく影響する。学習指導要領改訂に向けた有識者検討会の論点整理でも学校現場の過度な負担を防ぐことが示された。

 現行学習指導要領が求めている「主体的・対話的で深い学び」に加え、「個別最適な学びと協働的な学びの実現」には、準備と時間がかかる。「カリキュラム・マネジメント」というマジックワードを使えば実現できるような説明も幻想である。

 思い切って内容を精選し、じっくり取り組める学びを保障するとともに、子どもたちによってその時間が異なることに注目していきたい。

教員の自己犠牲が教育の質を保っている

 財務省や文科省が言うように、単に在校時間を減らすことだけを目指せば、これまで以上に持ち帰りの仕事が増えるだけでなく、打刻不正も横行することになるだろう。また、勤務時間内でできることをすると割り切れば、個々の子どもたちへの対応はできず、授業の準備もできない。教育の質は下がり、子どもたちや保護者の不満は学校に向くことになる。

 そうなることが分かっているから在校時間が長くなるのだ。この教員の思いが自己犠牲となって、日本の教育の質を保っているということを改めて強調しておきたい。

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