心に麻酔を打ちながら、学校に行っていないか(澤田真由美)

心に麻酔を打ちながら、学校に行っていないか(澤田真由美)
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「職場が安心できる場所であってほしい」という素朴な願い

 学校は子どもが成長する場所ではあるが、その先には一人一人の自分らしい幸せの実現がある。誤解を恐れずに言うなら、成長至上主義一辺倒の場所ではないと思う。

 先生も子どもも、人だ。学校での日々の営みは、計画していてもその通りに進むわけでもないし、機械のようにオン・オフという世界でもない。無理に進めようとしたり、目に見える成長を求め過ぎたりすると、逆効果になることもある。

 不登校の現状や教員の休職状況からは、数字に表れない場合でも、潜在的に違和感を抱えながら過ごす子どもや先生が大勢いることがうかがえる。

 先生たちに、職場に望むことや必要だと思うことについて本音を聞くと、具体的な施策以外で多く出てくることがある。職場が安心できる場所であってほしいという、先生たちの素朴な願いだ。

 「ドンマイと言い合えること」「同僚に相談や雑談できるといいな」「お互いを気に掛けたい」「そろそろ帰ろうと声を掛けてほしい」――など。こうした日常的な居場所を願う声が自校の教職員から多く出てくることに、「こんなささやかなこととは」と驚く校長先生は多い。

 現職を離れた先生が、「当時は異常なまでの責任感と真面目さだった」と言うのを聞いた。「先生は一対一で話すと優しいのに、みんなの前では怖い」という子どもの声もあった。

 一見すると大きな問題はなさそうだけれども、本人も無自覚に、心に麻酔を打ちながら学校に行っているようなことが、子どもにも教員にも起きていないだろうか。

今一度「少ないことの豊かさ」「緩めることの良さ」を考えよう

 何かを得る時に、いつの間にか別の何かが失われているということがある。

 テストの事前練習をすれば、点数は目に見えて上がる。放課後まで発表会の練習をすれば、本番は素晴らしいものになる。頑張った子どもたちにも指導した先生たちにも、達成感や喜びがある。

 しかし、目に見える成果には反映されないが、その裏では押しやられた何かがあったかもしれない。例えば、普通で丁寧な日常の授業、子ども同士で過ごす何気ない時間、目を細めて子どもとおしゃべりするゆとり、コーヒー片手に子どもの様子について交わす職員室での会話など。

 こうしたさりげない素朴な日常の価値は、目に見えにくいし数字で測ることもできないため、そっと失われても多くの場合は気付かれない。逆に、目に見えやすい成長やその過程は分かりやすいため、価値付けられやすい。良いあんばいは人それぞれなのに、有無を言わさずその渦に巻き込まれていくなら、学校はしんどい場所になる。

 今一度「少ないことの豊かさ」や「緩めることの良さ」について考えてみたい。今ある良さを再発見したり、うまくいかなさもまるごと受け止めたり、むしろ少なさやシンプルさ自体をゆったりと味わうという選択もある。

次の学習指導要領には踏み込んだ一押しを

 ある学校で先生たちは、自分たちが眉間にしわを寄せて子どもをせかしていたことに気付いた。そこで、活動の数を減らし、「うまいこと」させよう・しようとするのをできるだけやめたら、子どもたちのけがや不登校、教室からの飛び出しが減った。

 先生たちからは「じっくり見ることができて、一人一人がいとしい」との声。その時・その場・そこにいる人に応じて、良いあんばいを見つけたいし、それを見つけることは学校の専門性の一つだろう。

 日常の素朴さや柔軟性を大切にするこうした学校は、少しずつ増えてきたのを感じる。しかしまだそうできにくい学校も多く、私のところにも相談は多い。

 現行の学習指導要領には、「児童(生徒)の負担過重となることのないようにしなければならない。」とある。ただ、これは指導を上乗せする際に関してのものが主だ。

 特別支援学校に長く携わった先生が小学校に戻った時に「子どもたちの違いに目をつぶって進めていると感じるが、それでも特別支援学校と違い、子どもたちはついてくることができてしまう」と言った。

 「少ないことの豊かさ」「緩めることの良さ」という、今まで多くの学校では二の次になりがちだった価値観や、その良いあんばいについては各学校、各教室で改めて考えたいし、そのあんばいを現場ごとにそれぞれが柔軟に実行する必要性については、特別な事情のある子どもたちだけではなく全ての子どもたちに関することとして、次の学習指導要領には踏み込んだ一押しがあるといい。

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