【フィールドワークで探究を】 教育の未来を変えるかもしれない

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 災害の被災地などで学生とともにフィールドワークを重ねている金菱清・関西学院大学教授は、フィールドワークは到達点に向けて解いていくものではないからこそ、「教育の未来を変える」可能性があると語るとともに、失敗から面白さが広がることを味わえるのは「探究の時間」でのフィールドワークだと指摘する。インタビュー第3回では、被災体験を取材することなどフィールドワークをする意味などについて聞いた。(全3回)

フィールドワークで被災経験を語り継ぐ

 ――熊本地震も東日本大震災にしても、今の大学生はほとんど記憶がない世代です。阪神・淡路大震災はまだ生まれる前です。そうした学生が、経験者に対して話を聞く行為は、まったく客観的なスタンスで話を聞きに行くようなものなのでしょうか。

 だから怖いと思いますよ。ある部分ではその人の深部をえぐり出すことになりますから。一応、学生たちのメンタル度数を数値化しているのですけれど、そんなに堪えているという感じではないですね。おそらくグループで取り組ませているからだと思います。ゼミで取り組んでいる集団の力なのかな、と。むしろ、災害を取材しているマスコミの記者さんの方が惨事ストレスとして結構メンタルをやられているようです。

 東日本大震災の被災者の夢に着目して本(『私の夢まで、会いに来てくれた――3.11亡き人とのそれから』朝日新聞出版)にまとめた際に、ライターさんに協力してもらったのですけれど、そのライターさんは「学生によくやらせますね」「その夢の中に奥深く入り過ぎて、そこから抜けられなくなる怖さがある」っておっしゃったのです。でも、学生はそういう話を聞いても意外とあっけらかんとしている。それはたぶん、学生は全員が研究者になるために大学に進んでいるわけでもないですから、その瞬間だけ関わると割り切っているのかもしれません。

 震災の記憶を伝えていくことには「30年限界説」というものがあります。30年たてば社会的な記憶が消えていくことを前提にしているのですが、関西の学校現場でもそれをもろに感じている人がいて、阪神・淡路大震災を経験した先生が定年を迎える一方で、震災を知らない若い先生が入ってきますから、震災の記憶も学校現場から消えていくわけですね。

 学生が教育実習に行った学校では毎年、阪神・淡路大震災で被災した当事者の方を呼んで講演してもらっていたのですが、その年は日程がなかなか合わなかった。ようやく見つけた語り部は、語り部の講習を受けた方で、直接、震災を経験したわけではなかったそうです。

 ――戦争体験も、体験者がどんどん亡くなっていく中で、次の世代がどういうふうに受け継いで次の世代に伝えていくかが課題ですね。

  語り継ぐことで、子どもたちに伝えることはできる。ということは、フィールドワークしている学生を主体として位置付ければ、永遠に語り継ぐことができるわけで、30年限界説を覆すこともできるのではないでしょうか。

学生によるフィールドワークの様子=提供:本人
学生によるフィールドワークの様子=提供:本人

学生は大人とは当たり前が違う世界にいる

 ――インターネットで調べればすぐいろんな情報が出てきて、AIもどんどん進化している時代に、フィールドワークの大切さをどのように伝えていけばよいでしょう

 学生を見ていると不思議なことに、研究をまとめる時に、参考にできる新聞記事が山ほどあるのに、検索を全然しないのです。論文だっていろいろあるのに検索しようとしない学生が多い。それは結構、面白い点です。

 われわれは「Z世代は検索しまくっていろんな情報を得ている」というようなイメージを持っているけれど、もう検索すらしない。自分が興味あるものについてはどんどん主観的になっていくようなデータの扱い方なのです。それ以外の、興味のないことについては等閑視しているということですから、ある意味で客観的なのかなと思うのですが。

 一方で、私たちが当たり前だと思っている善しことが当たり前ではない時もあります。当事者との手紙のやりとりで、返信用封筒の同封の仕方が分からないこともあります。そもそも手紙を書いたことがない世代なのかもしれません。

 さらにライン世代になると、メールに件名もない。多分、住んでいる当たり前の世界が全然違う。それはたぶんフィールドワークでも一緒だと思うのです。その人の世界から見た当たり前と、こっちの当たり前とが違っていて、それを探り当てるようなところがあります。

 学生は相手の方との間で、おそらく面白いやりとりをたくさんしているのだろうと思うのですが、どういうやり方をしているのか分からないので、怖くて立ち入ることができないという面もなくはない。インタビューの1回目で、教員もそれぞれ進め方が違うという話をしましたが、私は基本的に、学生が失敗して何か問題が起こった時に初めて対応するタイプではないかと思います。

 いろいろなものが、どんどんAIに置き換わっていて、翻訳も英会話も、どんどんストレスがなくなっている。フィールドワークもどんどん壁が低くなっている。リモートで翻訳機能を介せばどこまででも行ける。

 文字起こしもそうですよね。以前は文字起こしに結構時間がかかるので日にちを置いていましたが、10分の1ぐらいに時間を短縮できている感覚です。今までだと文字起こしするだけで疲弊していたところを、その時間で別の人の話を聞いたりすることができる。

 ただ、以前は文字起こししながら自分の中でそしゃくして、話を聞いている時には理解できていなかったことが心に落ちたり、逆に疑問が出てきたり、あるいは「もっとこういうふうに聞けばよかった」と反省したり、リフレクションの時間もあったと思うのですが、それがなくなると、発展が阻害されるような気もします。それもまた善しあしですね。

「学生がトラブルにあったときに出ていくタイプ」だという=撮影:大川原通之
「学生がトラブルに遭ったときに出ていくタイプ」だという=撮影:大川原通之

結論にたどり着けるわけではない

 ――高校の探究の時間や、小・中学校での地域での調べ学習などを指導する先生たちに対してアドバイスを。

 フィールドワークで他の大学の学生と一緒に活動することもあるのですが、それこそ東大生はきっちりメモ書きをまとめていたりして、さすがと思うところがあります。けれどもフィールドワークは、人から話を聞いたり、動き回ったりしていろんなものを見つけるといった、「足で稼ぐ能力」が生きます。ルールがあるわけではないし、何か正解があるわけでもなくて、その人の思いから答えを導き出すみたいな面白さがある分野です。いわゆる偏差値では測れないので、極端に言えば「教育の未来を変える」かもしれないと思っています。

 ノーベル賞でも何でもそうですが、失敗から発展することはたくさんあって、失敗から生まれた発展に面白さが広がっていく経験は、探究の時間のフィールドワークで開くことができます。それは、生きる力と重なってくるのではないでしょうか。やっぱり発想の転換が求められている時代だから、それこそAIではできないような、地に足を着けて切り開く力というのは、フィールドワークの醍醐味(だいごみ)だと思うのです。

 ですから探究の時間で、結論までたどり着けるかどうか、その辺はあんまり考え過ぎると活動が深まらないと思います。到達点が決まっていて、そこに向けてどういうふうに解いていくのかというものではありません。「おそらくこういう結論になるだろう」ということを見越して、そこに向けて証拠を積み上げていく学習ではないわけです。

 どうしても評価しなければいけないわけですけれど、評価軸の置き場所がうまくできれば、子どもたちの将来につながるような形になるかもしれないと思います。

失敗から生まれることがたくさんあると強調する=撮影:大川原通之
失敗から生まれることがたくさんあると強調する=撮影:大川原通之

【プロフィール】

金菱清(かねびし・きよし) 1975年大阪府池田市生まれ。関西学院大学社会学部卒。関西学院大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。東北学院大学教養学部地域構想学科教授などを経て、現在、関西学院大学社会学部教授。専門は、社会学・災害社会学。著書に『生ける死者の震災霊性論――災害の不条理のただなかで』『震災メメントモリ』『3.11慟哭の記録』『呼び覚まされる霊性の震災学』(単編著。以上、全て新曜社)、『震災学入門――死生観からの社会構想』(ちくま新書)など。

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