中教審の教育課程企画特別部会で、次期学習指導要領についての議論が始まっている。その中で、3月28日の会議で示された「裁量的な時間(仮称)」(裁量時間)は画期的といえる提案であり、実現を強く期待したい。
裁量時間は、教科の授業時数を減らして生み出した時数を、教育の質を高めるための授業以外の時間(研究活動など)に充てられるという仕組みである。事務局が提示した資料では、標準授業時数を下回った分の時数の活用方法について、以下の3つの選択肢が示されている(2025年3月28日教育課程企画特別部会資料1-1)。
① 別の教科等の授業時数に上乗せする
② 特に必要な教科の開設に充てる
③ 各教科等に該当しないものの、児童生徒の個性や特性、実態に応じた学習支援など、児童生徒の資質・能力の育成に特に資する効果的な教育を実施するための裁量時間に充てる
上記の①や②は、ある教科の授業を減らした分で別の授業をするというものである。現在の制度では、授業時数特例校や教育課程特例校で可能になっている。各学校の創意工夫による教育課程の編成ができるというメリットはあるが、総授業時数は変わらない。そのため、教員の授業準備などにかかる負担は減らない。学校独自の新教科を作った場合は、むしろ増える可能性が高いだろう。
一方で③は、減らした授業時数を、児童生徒の学習支援といった教科以外の時間に充てるという提案である。同資料では、裁量時間について「教育の質の向上を目的とした、授業改善に直結する組織的な研究活動などに充てることも可能とすることの適否やその上限をどう考えるか」という問題提起もされている。つまり、教科の授業時数を削った分を、教員自身の研究活動など授業以外の時間にも充てることが検討されているのである。
会議資料や当日の議論からは、児童生徒や教員の時間に余白(=授業以外の時間)をあえて取ることによって、それぞれの状況に応じた工夫や調整を可能とし、教育の質を高めることにつなげたい、という意図がうかがえる。
そうした個別の学習支援や研究活動は従来、授業時数の外で行われてきた。そのため、そのような活動に授業時数を充てるのは筋違いだという指摘も出てくるだろう。しかし、現在の教員の勤務実態を直視すれば、授業時数の外で、学習支援や研究活動の時間をこれまで以上に充実させるのは現実的でない。働き方改革が進み、時間外在校等時間の抑制が求められる中で、授業の質を向上させるための時間を確保するためには、標準授業時数の中でそうした時間を捻出するのが、実効性のある方法といえる。
他方、働き方改革が必要であれば、標準授業時数を減らせばよいではないか、という主張もうなずける。しかし、では標準授業時数のうちどの時間を減らすのか、という話になると、途端に「〇〇なんて一生使わない」「××を習わないのはおかしい」などといった主観論があふれる。かといって、全国一律に、内容を減らさずに時数を減らすのも無理がある。そうであれば、どの時間を減らすのか、減らさないのか、と国が決めるより、各学校の裁量を増やすという今回の提案の方が、実態に応じた調整が可能となるだろう。
今回の特別部会の提案でもう一つ注目すべきなのは、柔軟な教育課程を特例校という形で国が認可するのではなく、それ自体を現場の裁量に委ねようという方向性である。
私は以前、中教審の教育課程部会に「標準授業時数の大枠は維持しつつ、各教科等への配分を弾力化する」という提案をしたことがある(20年4月書面審議 熊本市教育委員会提出資料)。その翌年度に創設された授業時数特例校制度は、まさにそうした弾力化を可能とするものであった。しかしながら、学校の設置者が文部科学省に申請をして指定を受けなければならないという、提案時には考えもしなかった縛りがあったため、深く失望した。それはすなわち、文科省は「学校や教育委員会を信じていない」という意思表明に他ならないからである。
ところが、今回の教育課程企画特別部会では、上述した裁量時間の活用について、国への申請を不要とすることも検討されている(そもそも、そうでなければ「裁量」とは言えないと思うが)。
次期学習指導要領で、文科省が「いちいちお伺いを立てさせる」という発想を捨てようとしているならば、授業時数を授業以外に使えるということ以上に画期的である。義務教育の授業について、学校や教育委員会を信じて任せてみよう、という覚悟を国レベルで持ったのであれば、日本の学校制度が始まって以来の英断といってよい。
学校裁量を重視する学習指導要領は、画一的・硬直的と言われ続けてきたわが国の教育制度を変える契機となるはずだ。今度こそ、期待が失望に変わらないよう、地方からも応援していきたい。