給特法改正にみる、教育行政の3つの矛盾(喜名朝博)

給特法改正にみる、教育行政の3つの矛盾(喜名朝博)
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解決すべき課題が整理された

 衆議院で17、参議院で21もの附帯決議が付いた給特法改正。具体的方策も示さずに、学校における働き方改革の推進を教育委員会や学校に丸投げするという政府の手法の危うさは、学校現場や多くの関係者が指摘している通りである。それでも、附帯決議として解決すべき重要課題を整理した国会は、その責任を果たしたと言えるだろう。

 法的拘束力がないといっても、これを無視することは国会軽視であり、何より学校現場をますます疲弊させ、教員離れを加速させる。国は学校の現状を真に理解しようとせず、何の対応もしないのだという諦めは、学校教育の崩壊につながる。今年も教員採用選考応募者の定員割れの情報が入っている。教職調整額の増額程度では、この崩壊は止められない。

「令和の日本型学校教育」の矛盾

 子どもたちの全人的な教育を基本とし、国際的にも評価を得てきた日本型学校教育。しかし、その成果は教員の献身的な努力に支えられてきたものであった。これを持続可能な体制にしていくためには、教職員の処遇改善とともに学校における働き方改革を徹底していく必要があるとするのが「令和の日本型学校教育」だったはずだ。

 いまだに「令和」になっていないという矛盾が生まれている原因は、処遇と働き方改革を混同したことにある。ここには、財務省の思惑と行政の力関係が見えてくる。特別支援教育に関する調整額の減額や主務教諭の創設に伴う給与表の改定により、教諭の給与減も予想され、1%程度のアップは相殺されるかもしれない。結局この国を動かしているのは財務省なのだと分かると、諦めはさらに深くなっていく。

 教職調整額が4%である根拠は、給特法策定当時の残業時間(平均月8時間)を基にしている。現状なら20%でもおかしくない。労働に見合った処遇は当然の権利であるが、これまで見直すこともせず、超勤4項目以外は全て教員の自発的行為であると片付けてきたことにも現場との乖離(かいり)があり、諦めを助長させている。

 埼玉超勤訴訟の最高裁判決では、「給特法はもはや教育現場の実情に適合していないのではないかとの思いを抱かざるを得ない」という付言が添えられた。学校現場だけでなく、中教審や最高裁などの権威ある組織が問題視しているのに、真摯(しんし)に対応しようとしないのが昨今の政治姿勢である。問題の本質を避けて先送りしても崩壊は止められない。

「教育は人なり」の矛盾

 「教育は人なり」は、文科相も文部科学省も好んで使う言葉だ。「人なり」とは、まさしく教員を指しているが、その教員の働きやすさと働きがいを創出するための環境を整えるのが行政の役割である。

 給特法の改正は、マイナスが少しだけゼロに近づいただけでしかない。学校における働き方改革の問題の本質は、仕事量と教員の数が見合っていないことであり、教育委員会や校長がいくら仕事量をマネジメントしても限界がある。退勤時間だからといって、明日の授業の準備や学級事務が終わっていないのに帰るわけにはいかないのだ。子どもたちのために少しでもいい教育をしたいと考えるのが教員であり、それを一律に教員の自発的行為と片付けられてはやっていられない。

 さらに、在校時間を減らすことのみを目標とすれば、若手教員や経験の浅い教員の学びの機会を奪うことにもつながる。そんな彼らの仕事を補うために中堅教員は自分の仕事を後回しにして、フォローに回っているのだ。学校でも中堅教員の静かな退職が始まっている。若手教員とベテランだけの学校では組織としての持続可能性が保障されない。「教育は人なり」という言葉を聞くたびにむなしさを覚える。

新学習指導要領の矛盾

 授業準備や学級事務を勤務時間内に終わらせるためには、持ち授業時数を減らすしかない。そのためには総授業時数を減らす必要があるが、これまでの中教審の教育課程企画特別部会の議論では、柔軟性は持たせても授業時数は現状維持になりそうだ。残る方策は、義務標準法における「乗ずる数」(学級担任以外の教員を配置するために定める係数)の改善であるが、これも行われない。

 今回の教育課程改訂に関わる諮問と同時に「多様な専門性を有する質の高い教職員集団の形成を加速するための方策について」という諮問も出されており、当然、2つの諮問は連動しなければならないが、現状ではそれが見られない。

 全ての教員が安心して、子どもたちの教育にまい進できるように、環境を整えるのが教育行政の役割である。まず、教育行政自体がこれらの自己矛盾を解決すべきではないか。

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