新任教師時代の私の子供理解はかなり早かったと思います。スピードのことです。当然のことながら理解は浅く表面的で、分かった気になっていました。「目に見えないもの」に目がいく力が不足していました。
学校の決まりを守らない子供は服装や髪形などの見た目がほかの子供と違うことが多くありました。ある日、生徒指導の中心となる先輩教師が、「守るように指導してください」と自分で言っておきながら、違反を見逃しているのを見てしまいました。若い私は、怠慢・指導の甘さと「素早く理解」しました。ところが、先輩は次の子供には注意をしていました。よく見ると、やってくる子供によって注意の具合が違うではありませんか。どういうことなのでしょう。こんな不徹底な指導なのに、子供たちは比較的素直に反省しながら直しています。先輩教師はこわもてではありましたが、力で強要してはいません。むしろ、柔和な笑顔で接しています。片や、私は、「守るように」の言い付け通り真面目に指導をこなしているのに、どうも子供の受けが悪いのです。反感の目を向けてくる子供もいます。勢いこちらの口調も表情もきついものになります。割に合いません。
皆さんはもう愚かな若手教師の失敗の原因をお分かりでしょう。
子供には子供の背景があります。家庭での親子関係、経済状態、その日の諍いから失恋まで。そうした心の揺れが、生活の揺れとなり、やがて外見に現れることがあります。先輩教師は子供から慕われていました。それは、等身大の子供に近い理解を土台に接することができるからだったのです。子供を理解すると言いますが、こっちが理解するという文章になっていて、主語が「私」だから時に勘違いしてしまいます。本当は「子供が理解されたと感じる」でなくてはなりません。物事は主語が変わると、同じ出来事でも見え方が大きく変わります。それに気付いたのはずいぶんたってからでした。先輩教師は常に自身の行動選択の基準に「子供を主語にする」を置いていたのでしょう。服装や髪形に今よりも強く執着する生徒指導をしていた時代でしたが、今思うとこの先輩は服装や髪形などどうでもいいと思っていたのかもしれません。外見に100%固執していた私が子供に理解されるわけがありません。
また、発達障害など、子供自身が本人の力では何ともし難い特性というものもあります。初めて診断名のある子供を担任して以来しばらく、こうした診断名で子供を語る時期が私にはありました。それは、当該の子供と接し、書物で勉強した自分が子供を理解できる自分に成長したと感じたからに他なりません。しかし、同じわだちを踏んでいると今なら分かります。結局、私の中にある知識に子供を当てはめているだけで、若い頃の私と比べてあまり変わっていないのです。頭でっかちになった分かえって面倒な人になりました。やはり子供理解は主語が子供でなければなりません。
経験をもとに私が考える子供理解。それは、その子自身の行動を細部にわたってよくよく見た後にかろうじて導き出されるもの、それも私一人の頭でなく信頼できる仲間とともに、一人の子供の目に見えない姿を目に見えるものから導き出す作業を諦めずに地道に続けることで導き出されるものであると今は思います。
(石原真吾・岡崎市立大門小学校長)