12年ぶりとなる生徒指導提要の改訂が、間もなく実施される見通しだ。この提要の最終案に対し、まず感じたのは「上の句と下の句がねじれている」ということだ。
改訂版(案)は、子どもの権利条約の原則に基づき、子どもの最善の利益や自らの意見を表明する権利を踏まえて指導にあたることを強く打ち出した。子どもを教育指導の対象とする旧態依然の生徒指導観を改め、「子どもが権利行使の主体であること」を学校と教職員が意識することと定めている。子どもを主語にした学びを進める上で、これは意義あることだ。
ところが、この資料の名は「生徒指導提要」だ。「生徒を指導する」という表現をした時、その主語は誰か。それは教員であり、学校になる。子どもではない。その点で「上と下がねじれている」と感じた。
これからの教育現場が目指すべきなのは「誰一人取り残さない学校」だ。それなのに今なお、子どもの自死や不登校、いじめがなくならないのは、これまで「子どもが権利行使の主体だ」と言いながらも、子どもを指導の対象として管理してきたからだと私は考えている。
新学習指導要領が完全実施された今、学校は保護者や地域などと連携しながら、あらゆる方向から子どもを支援し、主体的な学びを支えると示されている。それならば、「生徒指導提要」ではなく、「生徒支援提要」であるべきではないか。
これでは学校現場に対し、十分な説得力を持てない。いくら「校則を見直す際、子どもの意見を聞き、子ども同士での議論の場を設けよ」「子どもを成長させるのではなく、自ら成長するのを支えよ」とうたっていても、タイトルが「生徒指導提要」では、現場教員は「また旧態依然とした内容だろう」と捉えるのではないか。それではせっかく重ねられた議論もむなしく、この提要は浸透しないままになる。
こうしたねじれは、日本の特別支援教育を巡る状況にも感じている。本紙電子版9月12日付でも報じているとおり、国連の障害者権利委員会が同月9日、「特別支援教育によって障害のある子どもが隔離された状態が永続化している」などと指摘する勧告を発表した。これに対し、永岡桂子文科相は同月13日、「特別支援学級の在籍者は週の授業時数の半分以上、特別支援学級で授業を受ける」と求めた文科省の通知について、「インクルーシブ教育を推進するものだ」として撤回には応じないとしている。
私は文科省がこの通知を出した4月から、「インクルーシブ教育としておきながら、分離教育を推奨している。上の句と下の句が合っていない」と憤りを覚えていた。この分離を解消するよう国連勧告が指摘したと知って「見事に矛盾を突いた」と捉えたが、文科省が撤回しない方針だと分かって無念だと感じている。
問題のそもそもの出発点は、「インクルーシブ教育とは何か」という共通理解が不十分なまま、国全体がインクルーシブ教育に向けてかじを切ったところではないだろうか。それが今の教育現場の大きな落とし穴になっていると考える。
私が考えるインクルーシブ教育とは、どんな特性や個性があろうと誰も排除せず、全ての子どもの学習権を保障して誰もが自分らしく安心して学べる居場所を得ることだ。一方で、文科省の通知にも表れているように、国が考えるインクルーシブ教育は「障害があるかないか」というくくりで捉え、「障害のある子と障害のない子を共に」という考え方をしている。これは国際的なインクルーシブ教育の流れにはそぐわない。
私が校長を務めていた大空小学校には、いわゆる特別支援学級はなかった。個々に自分ができる学びを、特別の部屋ではなくみんなの中でやろう、という発想が原点にあったからだ。みんなの中でできない時にだけ、その子に必要な場を設けたり、必要な支援をしたりすればいいという考え方だった。
障害を理由に子ども同士を分断する場では、学びの本質は生まれない。隔離された部屋で個の力をどれだけつけても、その力を試す場がなければ生きて働く力にはならない。子どもは子ども同士の関係性の中で育ち合うものだ。
国が「生徒指導」という文言を使い、分離教育を継続させる通知を出す以上、学校は現場教員が変えていく必要がある。その上で、私がぜひ伝えたい考え方は「スーツケースと風呂敷の発想」だ。かつての管理教育を進めていた学校教育では、教員は自分の価値観で作ったスーツケースを開き、その中に子どもを入れていた。「カチッ」と閉じれば子どもには外が見えない。
しかし現実には、長い棒の子どももいれば、膨らんだ風船の子どももいる。そういう子どもはスーツケースに入れることができず、全国で20万人の不登校の子どもになってしまっていた。
これからの学校教育に必要なのは、スーツケースではなく、風呂敷だ。それも、教員1人だけではなく、全ての教職員、保護者、地域住民の風呂敷をつなぎ合わせて広げた風呂敷である。そんな学校ならば、大量かつ多様な空気が行き交い、どんな子どもにとっても空気が吸える居場所になる。全ての教員に、この「スーツケースを風呂敷に変えていく発想」を持ってほしいと考えている。