自律しようとする子どもを「発達障害」とみていないか(木村泰子)

自律しようとする子どもを「発達障害」とみていないか(木村泰子)
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 文科省が2022年12月に結果を公表した「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査」について、私が「そもそも質問項目が『子どもを主語にした学び』と真逆を行く考え方だ」と捉えていることは、前回の昨年12月29日付本紙電子版のオピニオンで伝えた。今回のオピニオンでは、専門家らがこの調査結果から「教員らの特別支援教育に関する理解が進み、今まで見過ごされてきた困難のある子どもにより目を向けるようになった」という見解を示していることについて、考えを述べていく。

「困難のある子ども」の正体

 まず言いたいのは、現場の教員は目の前の子どもをもっともよく理解しており、その上で、10年後に社会がどうなっているか考えながら、生きて働く力を育てる授業がしたいと考えているということだ。

 一方で、今の学校現場には大きな圧力がのしかかっている。「全国学力・学習状況調査の結果を上げろ」「そのためには授業中に椅子に座っていなければならない」「教室全体が落ち着いていなければならない」「字を真っすぐ書けず、話の流れが理解できていないとテストの点数が悪くなる」。果ては「学力を上げなかったら教員の評価を下げる」と脅されるようなところまで締め上げられているケースもある。

 こうしたトップダウンの圧力を受けて、教員は根本的な問題を考える余裕もなく、大人が作ったスーツケースのような枠組みに子どもをはめ込まざるを得なくなる。その結果、生まれるのは、子ども一人一人の違いをないがしろにして、対話の機会も与えられない学習環境だ。自分の考えを基に自律することを認めない、窮屈な教室だ。

 その中で自律的であろうとする子どもに対し、「発達障害」というレッテルを貼っているのではないか。皆が同じことをしている中で「自分は一緒は嫌。これがいい」と言う子ども。授業で自由に意見を言って進度を遅らせ、テストの点数を悪くさせる子ども。皆の話し合いの流れに乗ろうとせず、自分なりの考え方で対話しようとする子ども。そうした子どもを「困難のある子ども」「発達障害」として排除する仕組みが作られており、それが今回の調査の質問項目にも如実に表れていると私は捉えている。

レッテル貼りが不登校や自死につながっている

 「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒は小中学校で8.8%」という調査結果は、こうした縛りを現場教員が受け、子どもをスーツケースの中に閉じ込めるような指導を余儀なくされている現状が誘導したと見るべきだ。

 だから、この結果を踏まえて訴えたいのは、「教員らの特別支援教育に関する理解が進んだ」などということではなく、「話し合いの流れが理解できない」「真っすぐ字を書けない」「教室で座っていられない」「周りが困惑するようなことも配慮しないで言ってしまう」といった子どもに、「授業の妨げになる困った子」というレッテルを貼る現状を問い直してほしい、ということだ。

 私はこうしたレッテル貼りが、不登校の子どもの数、そして自死してしまう子どもの数につながっていると考えている。だから今回の調査項目を目にすると、「子どもが死んでも、椅子に座れる子を作っていればいいのか」という問いが脳裏をよぎる。文科省はまず最優先で、不登校の子どもや自死してしまう子どもがゼロになるよう、学校現場とともに施策を考えるべきではないか。

 だからと言ってやみくもに文科省や教育委員会を否定したり、ましてや学校現場を否定したりしては解決の糸口は見えてこない。誰かを否定してしまえば敵が生まれ、敵が生まれて大人同士が対立していたら、その空気は全て子どもが吸うことになる。「大人は大変だ」と感じ、大人に憧れない子どもが育ってしまう。そして、過去を否定してもすでに起きてしまった出来事は変わらない。

 これまでの学校教育について、「このままでは国際社会に取り残される」と気付いたことで学習指導要領という「やり直し」をすることになり、他人と違うことに価値を見いだす社会に向かおうとしている。過去にとらわれず、「今から1秒先は未来だ」という気持ちで、この記事を一つのきっかけに「学校教育で真に大切なことは何か」という問い直しをしてみてほしい。

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