『あなたの授業力はどのくらい?』(ジェフ・C・マーシャル著、池田匡史ら訳、教育開発研究所刊)という本のタイトルにはハッとさせられた。教員であれば誰もが授業力向上を目指しているはずだ。しかし、改めて「どのくらい」と問われると答えに困る。それほど、授業力とは漠然としており、その基準も曖昧だ。
本書には7つの指標とチェックポントが示されているが、各教育委員会も「授業力チェックリスト」なるものを作成し、教員の自己評価による授業改善を促している。しかし、実際には、自分の授業を客観的に振り返る力(メタ認知力)の高い教員の授業力はおのずと高くなる。そして、その逆も真(しん)である。このことが授業力向上を難しくしている。
かつて「授業の名人」と呼ばれる教員がいた。子どもたちの思考を促し、表出させ、うまく取り上げながら本質に迫る授業は魔法のようだった。板書の達人もいた。その時間の流れが可視化された板書は、一つの作品だった。
そんな名人が減ってきたのは、ベテラン教員の退職だけではなく、授業観の転換もあるのではないか。いわゆる名人芸といわれた授業は、教員の敷いた路線にうまく乗せる授業でもあった。子どもたちの多様性や個々の学習の保障はあったかという検証も必要になる。美しい板書も、子どもたちがただそれをノートに写しているだけだとしたら、主体性は発揮されていない。
時代と共に、良い授業の条件は変わっていく。「教員が教える」から「子どもが学ぶ」へ。「学び」という言葉に代表されるように、教員の役割も、ファシリテーターや学びの伴走者へと変化している。板書もICT機器との併用によって、その役割が変化してきた。さらに、特別支援教育の視点からの授業の工夫も必須となっている。
良い授業の条件が多様化する中で、今も昔も大切なことは、子どもたち一人一人の学びが成立しているか否かということに尽きる。学級としての学びは成立しているように見えても、それが一部の子どもたちの活躍によるものであったら良い授業とは言えない。
個人の学びから小集団の学びへ。小集団の学びから学級の学びへ。その過程で子どもたち一人一人の学びが成立する授業が良い授業である。ICTの活用も個々の学びと協働的な学びを往還させるためのツールとして位置付けるべきである。
では、学びが成立するとはどのようなことか。それは、子どもたち一人一人の「分かりたい」「できるようになりたい」という欲求が満たされることである。そのための動機付けは、授業の丁寧な導入によって確かなものになっていく。
昨今、子どもたちと教材(学習内容)を結び付けるための検討、いわゆる教材研究が浅くなっている。子どもたちが、心の底から「分かりたい」「できるようになりたい」と思えるようにするためのお膳立てが足りない。子どもたちと乖離(かいり)している学習内容を、自分事とするように近づけていくことが教員の工夫であり、役割でもある。
「授業のめあてを明確にする」というチェック項目に応えるため、授業の冒頭に教員がおもむろに「今日のめあては〇〇です」と板書を始める授業がある。「めあて」とは子どもたちの「分かりたい」「できるようになりたい」という欲求を言語化したものであり、教員が「めあて」を決めた瞬間に、子どもたちの「学び」は、お仕着せのものとなってしまう。
それを分かっている教員は、子どもたちとのやりとりを通して、学級としてのめあてに集約していく。それは、教員の「ねらい」と子どもたちの「めあて」を合致させていく営みであり、ここには子ども同士、教員と子どもの対話が不可欠となる。主体的な学びは子どもたちが自分で「めあて」を決めることから始まるのだ。
授業は教員の工夫次第でいくらでも面白く、楽しく行うことができる。こんなに自由度の高い職業は少なく、教員の醍醐味(だいごみ)でもある。そして、そんな授業が子どもたちの学ぶ力を高めていくのだ。さらに、毎日数時間の授業を行う教員は、短期間で授業改善ができることも強みだ。小さな改善の積み重ねが授業力を上げていく。
そのためにも、授業の振り返り(授業リフレクション)が重要となる。教員の独善を排除し、子どもたちの反応や変容から授業を客観的に振り返り、すぐに改善策を講じる。それを日常化することで、自分の授業に対するメタ認知力が高まるとともに、授業力向上のサイクルが回り始めることになる。