全国の公立高校とタッグを組んで学校改革を進める、NPO法人青春基地の石黒和己(わこ)代表理事。既存の教育に疑問を持ったのは中高時代のシュタイナー学校での経験や、生きづらさが垣間見えた同世代たちとの出会いだったと語る。「当たり前は変えられる」と繰り返す石黒氏に、自身の経験を踏まえて描く理想の教育像や、高校生と向き合う中で得た気付きについて語ってもらった。(全3回)
私は中学、高校とシュタイナー学校に通っていて、日本の教育課程とは少し違う環境に身を置いた経験があります。
例えば、既存の教科書はなく、先生の話を聞きながら自分で教科書を作っていました。一度も定期試験がなく、成績は数字ではなく文章のみの評価でした。そのため友人と学力を比較したり、評価を上げるために学んだりすることは一切ありませんでした。ただこの話をすると、多くの人から「そんな環境で、どうして学びに向かうのか」と疑問を持たれました。
こういった疑問を投げ掛けられるたびに、教科書や定期試験があり、一斉授業が主流という日本特有の学校の在り方が、多くの人にとって「当たり前」で、変えられないものとして捉えられていることを感じました。
さらに多くの人が抱えている「外発的評価がないと子供が学びに向かわないのではないか」という心配について、子供のことを信じきれていないと違和感を持ちました。
日本の「当たり前」とは違う環境で学んできた私から見ると、それらは全く「当たり前」ではないし、変えられるものです。この違和感をこえるために、教育の道に進みました。
シュタイナー学校での出会いだけでなく、両親や学外での友人、大人たち、自分のことを信じてくれたり、面白がったりしてくれる人たちに囲まれていました。
例えば、私の通っていた高校は、山梨県と神奈川県の県境にあって、都内まで片道1000円くらい交通費がかかります。そんな中、両親は私にオートチャージのPASMOをくれて、「交通費は自由にしていい」と言ってくれました。おかげで私は「あの人に会いたい」「こんなことをやってみたい」と、ある種のわがままさや生意気さも含めて、かなり自由奔放に動き、考えることができました。
当時は本の著者に会いに行ったり、学外の友人たちと写真や作品を作ったり、資金調達をしてプロジェクトを立ち上げたりなど、さまざまな活動に挑戦しました。
そんななか、印象的な出来事が起きます。高校3年生の終わりに、初めて他校の出張授業に参加する機会がありました。対話型の授業で自分の夢を話すというテーマでした。その授業中、自分のグループにいた一人の高校生が、初めて自分の夢を話せたことに感極まって泣いてくれたのです。
そんな同世代の姿に私はびっくりしました。授業が役に立ったという達成感は全くなく、「心が張り詰めるほど言いたいことがあったのに、彼女はこれまで誰にも言えなかったのか」と、むしろショックを受けました。
そして、自分が置かれた環境から外に出て、当たり前のように本音を話し、やりたいことを実現できていることが、どれほどラッキーなことだったのかを思い知りました。
その出張授業だけでなく、学外の友人と話している中で、彼らを縛って、苦しめているものを感じ取ってきました。「うちの学校ではこれはできない」「そんなに自信が持てない」――。そんな何気ない言葉一つ一つが私にとってカルチャーショックであり、発見でした。
私は自由に、伸び伸びと考え行動できる環境を「当たり前」のものとして周囲からもらってきました。それが今も自分自身のエネルギーになっています。だとすれば、次は自分が誰かを信じ、応援したいと思いました。
そして、それを自分のコミュニティーの範囲だけでなく、「社会のシステム」として実現したいと思いました。なぜなら特定の誰かが悪いのではなく、教育や社会の制度、システムがそのようにつくられてきた結果だと考えているからです。
そういえば、考えたことはありませんね。
私は分断を乗り越え、個を生かした社会に変化させていくために、日本の教育システムを変えたいと考えています。子供たち一人一人をより信じて、応援できる未来はどうしたらつくれるか。そのために分野を横断し、学校教育の枠組みの中にとどまらず、さまざまな人たちと考え、つくることを楽しんでいます。
「子供」「大人」「教師」「学校」、私はそもそも職業や属性に縛られたり、こだわったりはしたくないと考えています。「こういう未来をつくりたい」というビジョンを持ち、そこにたどり着くためにはどうすればいいのか。常にそのことを考えながら探究しています。
高校生と語り合うのは、とても楽しいですよ。今の高校生と接していると、時代の変化をひしひしと感じます。私は今26歳ですが、彼らは全然違う世界観や価値観の中で生きているなと日々感じます。
打ち解けてきたり、自由な時間だと感じたりすると、いろいろなことを教えてくれるのですが、一人一人がユニークで個性が強いです。趣味も多様すぎてついていけません。
熱量があると同時に、本音を言わないことにも長(た)けていると感じます。「周りから変に思われるかな」「受け入れられるかな」と思って、外に出さない。いわゆる「空気を読む力」が磨かれています。それは悪いことではなくて、このインターネット社会をサバイブしていく術の一つだと思います。
ただ、そこには弱点もあります。相手に自分の考えを伝えない限り、その考えが変化することや発展することはありません。例えば「A」という考えを他人にぶつけると、それが「Aダッシュ」になったり「C」になったり、どんどん変化していく。他人と共有しないままだと、それはずっと「A」のままです。このことと、「なかなか進路が決まらない」「やりたいことが見つからない」という高校生の多くが抱える悩みはつながっているのではないでしょうか。
一般的には、教師という縦でも、友人という横でもない「ナナメの関係」と呼ぶのでしょうが、「個」として向き合っていると考えています。実際に最近では、生徒たちは「教師」「メンター」という役割ではなく、「和己さん」という一人の人間として私を受け入れ、そう呼んでくれているように思えます。もちろん同様に、私自身も高校生と向き合うときは、「〇〇学校」「〇年〇組」の生徒ではなく、一人一人「個」として向き合っています。
意識的に何かを心掛けてはいないのですが、強いて挙げれば、「意図を手放す」ことでしょうか。生徒たちは意図を持って接される行為を一番嫌うように思います。
先生方は生徒のことをとてもよく見ているので、「グループワークが得意じゃないな」「いつも一人でいるな」など、一人一人の課題によく気付きます。そして、そうした課題を踏まえた助言や行動をするでしょう。でも、そうした指導を受けた子供たちは「〇〇と思われている」と敏感に察知し、嫌悪感を抱きます。
もちろん、生徒をよく見て、観察することはとても大切だと思っています。ただ、見て感じたことと相手とのコミュニケーションは、完全に切り離すようにしています。生徒たちを知るためによく見て観察するけれど、接するときは「〇〇な子」とジャッジメントせず、フラットに対応するよう心掛けています。
私が思うに、人間は「多面性」がある生き物です。一人の人間の中には子供っぽさもあれば成熟した部分もあるし、さっぱりしたところもあれば感情的なところもあります。
一面だけを見て「この子はこうだから」とジャッジメントしてしまうと、たとえ違った面を見つけたとしても、その印象を書き換えるのはとても難しい作業です。生徒のことはよく見つつ、「こういう面があるんだ」「こんな面もあるんだ」とシンプルにありのままを受け取る。その人の一面を自分の個人的な価値観に落とし込まず、ノンジャッジメントの状態で捉えることが、子供と向き合う上で必要不可欠だと思います。
「私が決めることはできない」というのが答えでしょうか。
それは私たちがつくろうとしている「想定外の未来」だからです。彼ら彼女たちが何をやりたいか、どんな人間になりたいかは、一人一人が今後の人生をかけて開拓して、試行錯誤していかなければなりません。それを信じて、「手放す」ことこそが、教育を再定義することにつながると思います。
石黒和己(いしぐろ・わこ)1994年、愛知県生まれ。2015年、学部時代に青春基地を創設。中高時代にシュタイナー教育という教科書も試験もない自由な教育を受けたことを原点に、公教育の学校改革を通じて、未来の学校づくりに取り組んでいる。2017年に慶應義塾大学総合政策学部卒業、2020年に東京大学教育研究科修士号取得。