中学校の弱小吹奏楽部を全国レベルにまで育て上げてきた中畑裕太教諭だが、教職10年目の節目に退職し、新設校の叡明高校で音楽科教諭となった。周囲を驚かせた転身の背景には、どのような思いがあったのか。インタビューの2回目ではその経緯を聞くとともに、中畑教諭自身が部活動を通して生徒たちに伝えたいことを聞いた。(全3回)
――中学校の教員になり10年間、吹奏楽部で実績を重ねてきたのに、なぜ私学の高校に移ったのでしょうか。
私は卒業式の日とか事あるごとに、子どもたちに向けて「夢はかなう」「かなうから頑張れよ」と言ってきました。一方で自分自身の夢は何なのかというと、実は高校で吹奏楽部の顧問をしてみたいという思いが、教員になる前からずっとあったんです。
中学生を相手に10年間、教師として過ごしてきましたが、生徒たちが卒業した後の姿というものを私は知りません。たまに、卒業生が遊びに来るぐらいです。そんなこともあり、巣立った後の「その先」が気になっていて、高校の吹奏楽部で自分の力を試したかったとの思いもありました。何より、「夢はかなう」と呼び掛けている自分自身が、夢をかなえようとしていないのは駄目だと思ったんです。
当時、多分そのまま中学校にいれば、どこの学校に異動しても数年あれば吹奏楽部を全国大会に出場するぐらいのレベルまでは持っていけるだろうと思っていました。でも、それだけだと自分の成長にはならないじゃないですか。だから自分の夢を追い求めて、もう一度勉強しようと思ったんです。そう考えたタイミングが、教員になってちょうど10年目でした。
――辞めると聞いて生徒たちは落胆したんじゃないですか。
そうですね。他校への異動であれば納得するでしょうが、私の場合は自分の意思で辞めたわけで、生徒たちもそのことは分かっていました。だから「置いていかれた」「裏切られた」とか思われても仕方がありません。そのため、自分の口で「君たちに夢はかなうと日頃から言っていたように、私も夢をかなえたい」と伝えました。
――叡明高校を選んだ経緯を教えてください。
次の勤務先を考えるときに、吹奏楽の強豪校とか部員数や楽器が潤沢な高校に飛び込んでも、他人の夢に乗っかる感じがしていました。自分自身の夢をかなえたいんだったら、やはり何もないゼロの状態から始めたい。そんなことを考えているときに叡明高校と出合ったわけです。2015年に改編・新設されたばかりの新しい学校で、特に吹奏楽に力を入れようと思っているわけでもありませんでした。
――教員になる前から高校の吹奏楽部を指導するのが夢だったとのことですが、夢の原点はどこにあったのでしょうか。
中学時代は、どちらかと言うと素行が悪く、成績も良くありませんでした。そうした中、友人のお父さんから「その余りあるパワー生かさないか」と言われて、その方が教員として勤務している高校に誘われたんです。そうして言われるがまま、その高校に入学しました。
ところが入学したら驚くことに、その方は全国レベルの吹奏楽部顧問だったんです。私自身、中学校では楽器を全くやってなかったので戸惑いました。そして、その吹奏楽部は生半可では一切通用しないような場でした。そうした環境の中で、人と何か協力しながら形を成すことの楽しさを学ばせてもらいました。間違いなく、そこでの経験が原点となっています。
――その先生は、中畑さんに音楽的素養があると感じたんでしょうか。
感じてないと思います。その先生は九州男児で、おそらく単純に私が「気合が入っている」と思ったんじゃないでしょうか。日本の教育音楽は、バッハとかが作ったクラシック的な音楽の他に、軍楽隊的な要素もあるんです。ヨーロッパからの流れのクラシカルな音楽と、規律を重んじる軍隊的な音楽の融合なので、私みたいに「気合の入った」生徒も必要だと思ったんだと思います。
ですので、職業的魅力を感じて教師になったわけじゃないんです。たまたま教師という職業の人と吹奏楽から、「人とはなんぞや、生きるとはなんぞや」という大切なことを教わったので、「私自身もそれを還元しなきゃ」と思っただけなんです。
――大学は音大に進学されましたが、高校から音楽を始めた人としては、思い切った進路選択ですね。
音楽大学に進学した理由は、コンクールで負けたのが悔しかったからです。高校3年の時に吹奏楽部の部長を務め、全国大会での金賞を目指していたのですが、結果は埼玉県大会での銀賞止まり。それがあまりにも悔しくて、音楽をちゃんと学んで、なんで負けたかを知りたいと思ったんです。だから進学後も先生になろうという気持ちは全然なくて、卒業後はプレーヤーとして生活したいと思っていました。
でも、将来のことをあれこれと考える時期になって、「自分を人として成長させてくれたものは何だろう」と考え、「学校という場所で、今度は自分が教わったものを還元しよう」と思ったんです。
大学時代は、小学生から高校生までいろいろな吹奏楽バンドの外部指導のトレーナーもしていました。その中で、一番大変だったのは中学生への指導でしたが、一方では成長する様子を見ていると面白いものがありました。だから、まずは中学校で教えてみないと、何も始まらないと思ったんですよ。
――吹奏楽部の行動4原則として、「移動は常に早歩き」「あいさつはされる前にする」「返事は誰よりも早く」「話をしている人を見る」を掲げていました。現在もこの方針で指導しているのですか。
行動4原則は、今もそのまま掲げています。古臭いと思われるかもしれませんが、この4原則は社会に出てから絶対に必要な資質です。もちろん今は、あいさつや返事をうるさく言うような時代ではないという流れがあることも承知しています。コミュニケーションはスマホでも簡単に取れますし、それがスタンダードなテンプレートになっていく可能性も否定しません。
一方で、あいさつをはじめコミュニケーションの仕方次第で、評価が変わるのも日本社会です。あいさつもせず、もじもじしていても評価されるような社会であればそれで構いませんが、現実はまだそうではありません。もちろん、社会が変わっていく可能性もありますが、やはり人間は一人では生きていけないので、人と人との関係性という普遍的なところは大切にしたいのです。
吹奏楽は息を合わせたり、目と目で合図したり、目に見えないことで成り立っています。目に見えないものを合わせるというのは、まさに人と人とのコミュニケーションの原点だと思うんです。社会に出て必要なことと音楽の中で必要なことは非常に似ていて、私は社会に出て必要なことを音楽というフィールドで教えているだけだと考えています。
【プロフィール】
中畑裕太(なかはた・ゆうた) 1985年、福島県白河市生まれ。高校時代は埼玉県の吹奏楽部強豪校・狭山ヶ丘高校吹奏楽部で部長を務め、武蔵野音楽大学に進学。大学時代から吹奏楽の外部講師としても活動。その後、埼玉県の公立中学校教員となり、初任校の吉見町立吉見中学校の吹奏楽部を赴任4年目で全日本吹奏楽コンクール初出場へと導き、中学校の部の指揮者として史上最年少で金賞を獲得する。2014年に異動した川口市立青木中学校でも吹奏楽部を全国大会常連校に育て上げ、各種全国大会に生徒たちを導く。19年度から叡明高等学校教諭。著書に『「行動四原則」で強くなる吹奏楽』(竹書房)など。