【北欧の教育最前線】 スウェーデンの特別学校が「適応学校」に

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 スウェーデンでは2023年から知的障害特別学校の名称を適応学校に変更する。「特別学校」という名称が「普通ではない」という意識を植え付けているという批判を受け止め、より柔軟な教育に向けて動き出そうとしている。世界的に高い評価を受けてきたスウェーデンの特別教育だが、その先にどのような学校像を目指しているのだろうか。

特別学校から適応学校に

知的障害特別学校(撮影: 是永かな子)
知的障害特別学校(撮影: 是永かな子)

 スウェーデン国会は6月21日に教育法の改正案を可決し、知的障害特別学校、知的障害特別高校をそれぞれ適応基礎学校、適応高校へと名称変更することになった。

 また、知的障害特別学校には、訓練学校と呼ばれる比較的重度の知的障害児を対象とした特別のカリキュラムがあったが、これを廃止することにした。訓練学校では教科学習が特に困難な生徒を対象に、領域教科を合わせた総合的な指導としてコミュニケーションや表現活動、運動スキルなどが教えられてきた。子どもの状況やニーズに応じて柔軟な教育を提供しようと努めてきたが、訓練学校という名前によって固定的なイメージができ、子どもにより低い期待しか持たないというネガティブな影響が懸念されていた。そこで、訓練学校と知的障害特別学校との間の壁を取り払い、より包括的で柔軟な教育組織にしようと考えられたのである。

 法改正は23年に施行され、子どもたちが適応学校に通うようになるのは24年からになる見通しだ。

2人の若者が国を動かした

 この法案が成立した翌日、学校大臣は2人の若者と一緒に納まった写真をツイッターに上げ、彼らへの感謝の言葉を投稿した。2人は、19歳のレオ・ルストと21歳のラスムス・ヴェストルンドだ。彼らは、特別学校に通う友達がいじめに遭っているのを目の当たりにしたり、自分たちも特別学校に通っていることを周りに言いづらかったりしたという経験があり、4年以上にわたって名称変更運動を続けてきた。

 2人は国会議員や地元の政治家に訴え続けてきた。レオは14歳の時にコミューン(日本の市町村に相当)に市民提案を提出したこともあった。法改正の直接の機運は、ラスムスが地元の教育長に名称変更の提案書を提出した時に始まった。その年、レオとラスムスは政治家へのロビイングを積極的に進めていた。21年2月、レオはアンナ・エクストローム教育大臣から電話を受けた。大臣は、学校教育庁の部長から名称変更の提案を受けたので、前向きに進めたいと伝えた。レオは「こんなことが起こるとは全く思っていませんでした」と驚きながらも、チャンス到来を喜んだ。

国会での採決直後に教育大臣とハグするレオ、横にはラスムスと学校大臣(提供:lararen.se)
国会での採決直後に教育大臣とハグするレオ、横にはラスムスと学校大臣(提供:lararen.se)

 国会での審議は進み、22年6月に法案が可決した。その時、傍聴席に座っていたレオとラスムスは歓喜の涙を浮かべてハグをした。両隣に座った教育大臣と学校大臣も2人の貢献をたたえた。教育大臣は「言葉の役割は大切だ。特別学校に通う多くの若者が、その名前が偏見を助長していると思っている。名称変更には生徒、教師、そして保護者からの大きな支援があった」とコメントした。

インクルーシブ教育のこれから

 2人の若者の活動は象徴的だが、それと前後して、国も名称について議論を重ねてきた。特別学校という名称が子どもに疎外感を与えていることや、「私たちとあの人たち」という区別を助長し、それが差別やいじめ、嫌がらせにつながるという懸念があった。それは、インクルーシブ教育の理念という面でも、スウェーデンが08年に批准した国連の「障害者権利条約」にも合致していなかった。そのため、政府は17年に委員会を設置し、名称変更を検討してきた。「適応」(スウェーデン語ではanpassad)という用語は「子どものニーズや状況に合わせた活動をする」という意味だ。すでに教育現場に定着していたことから、より柔軟な教育を示唆する表現として採用された。

基礎学校。知的障害特別学校と隣接している(撮影: 是永かな子)
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 今回の名称変更に合わせて、適応基礎学校の子どもは、より早い時期に読み・書き・算数のサポートを受けられるようになる。早期に適切な支援を提供することで、特別なニーズがある子どもを「何もできない子ども」として置き去りにするのではなく、教科学習も含めて発達可能性を保障しようとしている。

 一方で、名称変更によって、「特別」ではないということが強調されると、教科を学ぶことが困難な子どもの存在や、より支援や資源を提供すべき子どもの存在が「見えなくなる」のではないかという懸念も示されている。

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