日本のスポーツで部活動は大きな部分であったことを考えると、地域移行はかなり根源的な議論をしなければいけない。すなわちスポーツが持つ価値を検討し、社会全体、地域全体とどう関連付けるべきかという俯瞰(ふかん)した議論が必要なはずだ。これを前提に、教師の働き方の枠組みを検討する。
日独の教師の役割を比べた時に表面的に似ているところと違いはある。しかし、その背景を見ると国の構造的な違いが分かる。
まず教師の仕事を単純化して考えると、(1)知識の教授(2)ソーシャルワーカーのような仕事――があるといえる。日本は両方をカバーしようとするから、仕事量やストレスが大きいのは当たり前だ。
ドイツはどちらかと言えば前者が大きく、後者は少ない。それでも親との関係に腐心し、生徒のパーソナルな問題に対応する「ソーシャルワーカー」のような役割の仕事はある。しかもそれらの「業務」は細切れにやってくる。これがたたってバーンアウトに至ることもある。人間を相手に、しかも教育にたずさわる教師の共通点だ。
しかし、例えば児童や生徒が万引をしたケースを見てみよう。日本の場合、担任が店に駆けつけ謝罪するケースが多いように見受ける。ドイツでもこのような場合、学校へ連絡が行くこともあるようだが、通常は警察や裁判所、ソーシャルワーカーなどとのやり取りの後、社会奉仕などが課せられる。法律上、未成年の責任は親にあって教師にはないわけで、教師が謝罪するということ自体、ドイツから見ると強い違和感がある。
さらに日本は校内風紀に対して異常に注力する傾向がある。髪型、服装、持ち物検査などがそうだ。それに対して、ドイツの学校は比較的自由だ。バイエルン州の教育文化省のサイトではいくつかの事例に対する見解が述べられているが、その一つに学校での鼻ピアス禁止の是非がある。同サイトによると、ピアス禁止は生徒が自分の外見を自由に決定する権利を制限することになるという。また、同州では学校や省庁によるピアスを規制する規則も存在しない。ただ体育の授業では怪我をするリスクがあるから留意する旨が書かれている。
同時に州の教育に関する法律では、学校の運営上、秩序を乱す可能性のある行為は控えるべきとの条文があり、ピアス着用がそれに抵触するか否かは学校長がその場で判断できるともある。しかし、あくまでもピアスの形状、サイズ、数などを考慮して、個別対応するものであり、生徒の一般的な行動の自由としてのピアスに禁止はない。
このような日独比較で指摘できることは、ドイツの学校の規則は連邦の憲法にあたる基本法や州憲法が、学校の校則に相当するような形になっていることだ。
教師は生徒の責任者ではない。ゆえに生徒の万引で教師が謝る必然性はない。ピアスは基本法(第2条1項)の自由な人格形成の基本権利が根拠で、自分の外見を自由に決定する権利とつながっている。
このように書くと、「どうせ外国の話だから」とか、現場に対処するにはきれい事は言っていられない、あるいは権利ずくめの説明そのものにむしずが走るという読者諸氏もおられよう。
しかし、もう少し俯瞰(ふかん)すると、日本の憲法にも個人の尊厳や自由、平等といった文言が並んでいる。ところがこれらの基本的権利や責任の所在が実際と大幅に異なる、場合によっては対立するようなルールを、学校というタコツボの内側に作っており、その維持に教師が多大な時間と労力を費やしているという構造が浮かび上がってこないだろうか。
スポーツの側面からも検討していこう。
部活動のないドイツではスポーツクラブが「スポーツ」の主舞台だ。具体的には拙著『ドイツの学校にはなぜ「部活」がないのか―非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティー、そして豊かな時間』(晃洋書房、20年)などを参照していただくとして、ここでは簡単に進める。
運営形態は非営利組織で、メンバーは学校、職業、青年/未成年・性別・国籍・人種など無関係。スポーツを共にする平等な仲間である。日本の先輩・後輩とは全く逆なのだ。またメンバーは「トレーニングをする側」のみならず、クラブの運営、指導、審判などにも有償・無償のボランティアとして活躍しているが、10代から高齢者までと幅広い。そして彼らは生徒や大学生、会社員、専業主婦・主夫、そして教師とさまざまな「横顔」を皆持っている。
日本で、学外でスポーツをすると「習い事」とされるが、スポーツクラブのメンバーになるということは、各地域にある「スポーツ」を軸にしたオープンで差別のない連帯的コミュニティーへの参加と言える。ちなみに国内にクラブは約9万。筆者が住む11万人の町でも100程度ある。これだけの数があると、クラブは地域にスポーツ機会を提供し、地域内の社会における「多様なつながりのホットスポット」にもなっている。
さらにスポーツクラブの性質を見ると「平等」「反差別」「連帯」といった概念で出来上がっているのが分かる。これらも連邦基本法で書かれる「人間の尊厳」が中核になった諸概念である。スポーツクラブもまた法に記された価値観に則した組織なのだ。
このように見ると、学校もスポーツクラブも人間の尊厳を基盤にした国家の軸になる価値観の上に作られている構造になっている。
個人を見ると、1日のうち学校や職場にいる時間は確かに長いが、日本よりも帰宅が早い。そのため、スポーツクラブなどで活動する「自由時間(余暇)」と「学校・仕事」が、感覚的には限りなく並列関係だ。つまり個人はまず、社会の中で存在しており、同じく社会の中に存在する学校や職場、スポーツクラブなどの非営利組織で活動する形だ。
それに対してコントラストを大きくして言えば、日本は共通の価値観を基盤とする了解がなく、特殊なルールがある強烈な「内輪」がそれぞれ乱立している形だ。これは多くの人が長時間、学校・職場にいるタコツボがたくさんある構造で、タコツボの外での副業を禁ずる感覚とも重なって見える。
地域移行の議論を日本の研究者や関係者と話している中で「学校そのものが閉鎖的」「スポーツ分野の世界は思いのほか視野が狭い」という指摘を聞くが、さもありなん。乱暴な言い方をすると、各業界が「お上」から現場までタコツボチューブでつながっているようなものと想定した方が、「日本」の構造が明確に捉えられるのではないか。
さて、少子化と教師の労働環境が「部活動の地域移行」という課題につながったが、日本全体がタコツボ構造でやってきたことの限界が、さらに大きな背景ではないか。だからこそ、教師の働き方改革を考えるときに、生徒も教師も、そして学校も、憲法に書かれた自由・平等などの価値が組み込まれた社会の中で立脚するものとして構想することが必要だと思う。もちろん現場の効率化、制度設計の検討も大切だが、それだけではタコツボの中だけの話になり、またしても議論が矮小化しかねない。
【プロフィール】
高松平藏(たかまつ・へいぞう) ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(バイエルン州)在住。 京都の地域経済紙を経て、90年代後半から日独を行き来し、エアランゲン市での取材を始める。2002年から同市に拠点を移す。両国の生活習慣や社会システムの比較をベースに環境問題や文化、経済などを取材。「都市の発展」をテーマに執筆。また講演活動のほか、エアランゲンで研修プログラムを主宰。著書に『ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか』(学芸出版社)、『ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方』(同)、『ドイツの学校にはなぜ「部活」がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間』(晃洋書房)など。