AI研究者であると同時に、日本の学校教育に「設計図」を作ろうとコンソーシアムを立ち上げるなど起業家としても活動する松田雄馬氏は、現在の社会状況について「人間が向かう先の羅針盤を見失っている」と指摘する。AIとはどのような存在で、人間とはどのような関係性にあるのか。インタビューの第1回では、AI時代に持つべき基本的な考え方について聞いた。(全3回)
――松田さんはAI研究者であると同時に起業家で、教育にも関わっています。
主に3つの現場で活動しています。「AI研究の最前線」「AI研究を社会に送り出すビジネスの現場」、そして「教育現場」です。
「教育現場」での役割はサイエンスコミュニケーションです。サイエンスコミュニケーションとは、子どもをはじめとする一般の方々に科学技術の楽しさを伝える活動のことを指します。私はこれをより広く解釈していて、一般の方々が素の目線で見たときに感じる疑問や、研究者とは違った視点での捉え方から、私たちが新しい発見を得る活動でもあると考えています。一般の方の感覚は研究者よりも鋭いことがあるからです。
「AI研究」の現場では、人工的に知能を作り出すことを目指しています。そのためには、人間の知能への理解が欠かせません。一般の方々から新しい発見を得るとともに、脳科学などの専門家や人間の成長発達についてよく知る教育現場の先生方とも、頻繁に意見交換をしています。
――AI研究者で、教育現場の先生と交流するというのは珍しいのではないでしょうか。
AI研究者をはじめ、人間の知能に関わる研究者の中には、教育現場の状況を考えずに軽々しく「教育はこうあるべき」などと持論を展開する人もいます。そうやって現場を知らずに理想論を語る人たちに、私は違和感を抱いていました。
研究を深めるためにも、そしてその成果を教育現場に還元するためにも、実験教室を開いたり、出前授業を行ったりして、子どもや先生と交流することが大事だと思います。
――AI時代の到来に期待と不安が入り混じる昨今、教育が目指すべき方向性が議論されています。
研究、ビジネス、教育の3つの現場を行き来する中で、私は未来について一つの結論にたどり着きました。それは、AIやデジタルテクノロジーなど最先端の科学技術が広がる中で、最も大事なのは「人間を理解すること」だということです。
「人間を理解すること」は、これまで学校教育で大事にされてきたことと変わりません。ところが変化の激しい現代社会においては、「人間とは何か」が大きく揺らいでいます。別の言葉で表現するならば、人間が向かう先の「羅針盤」を失っているのです。
私たち人間は何を羅針盤とし、どこへ向かうべきなのでしょうか。私は「生命知」こそ人間が大事にすべき考え方であり、羅針盤にすべきものだと考えています。
――生命知とは、初めて聞く言葉です。
生命知とは、人間が生きる中で発揮する知です。これを発揮し続けることによってこそ、社会課題を解決する知恵が生まれ、多くの幸福がもたらされます。
お金や環境資源には限界がありますが、知恵には限界がありません。人間の知能を理解し、コンピューティングシステムとして実現しようとするAI研究の中で生まれたのが生命知という概念なのです。
――この言葉を生み出したのはAI研究者なのですか。
生命科学の研究者で、「場の研究所」の所長でもある東京大学名誉教授の清水博先生です。
細胞を例にとると分かりやすいでしょう。細胞は単独では生きられません。互いに役割を分担し合い、資源を分け合い、弱みを補い合うことで、生命を維持しています。また、アメーバ状の生き物である変形菌と言われる菌類は、その場にいる全員が一斉に餌に向かうのではなく、餌に近い個体が餌から遠い個体に栄養を分け、全体に栄養が行き渡るようにしています。
餌が見つからなかったり、敵が現れたり、急に乾燥したりと、環境は常に変化を繰り返しています。生きるか死ぬかの真剣勝負の中で、瞬間的に体を制御する知の原理を清水先生は生命知と表現しています。これが発揮されればされるほど、その存在を持続させる能動的な働きが生み出されます。
――「AI時代」と呼ばれる中で、生命知がどのような意味を持つのか、詳しく教えてください。
人間が当たり前にできることが、AIにとっては当たり前ではありません。椅子に座ることすらAIには簡単ではないのです。
AIが椅子に座ろうとすると、椅子の大きさや自分の位置と椅子との距離、膝を曲げる角度、腰を動かすタイミングなど、気が遠くなるような計算を行う必要があります。
椅子に座ることが「当たり前にできる」という感覚は、私たちに体があって生きているから生まれるものです。人間の体は約60兆もの細胞からできています。それらの細胞が連動しながら働くことで、座ったり立ったり、笑ったり泣いたり、考えたり分析したりできるのです。
たくさんの細胞を持つ生物は、そうした複雑な活動を当たり前に実現して生きています。そうした生き物が生きているからこそ発揮される知、すなわち生き物ならではの賢さが生命知なのです。
――私たちにとっての当たり前が、AIには難しいのですね。
大人向けの講演会や子ども向けの授業で人間と機械の違いを説明する際、紹介する事例があります。
半自動運転のごみ収集マシンの動画を見せながら、映画風に「20XX年。とうとうごみを集めるロボットが出現した。人類はごみ収集の仕事まで奪われてしまうのでありましょうか」とナレーションをします。このロボットは実際に稼働しています。ごみを見つけると横からアームが伸びて、自動でごみ袋を持ち上げて荷台に積む仕組みになっています。
ところが、袋が破れていると盛大にごみをぶちまけてしまいます。この動画を見てよく言われるのが「やはり自動運転は失敗する」というコメントですが、大事なのはそこではないんです。
問題はぶちまけたまま「我関せず」みたいな感じで、その場を去ってしまうところです。大事なのはここなんです。
人間も失敗はします。だから、ここで学ぶべきは「ロボットが失敗するということ」ではなく、「失敗したロボットが何をするか」なんです。
これが人間と機械の越えられない壁で、ロボットは人間の指示をうのみにして、そのまま作業を続けます。人間もミスはしますが、「やっちゃった」と失敗に気付きます。
――「気付くか、気付かないか」が人間と機械を分かつ壁なんですね。
この図を見てください。AIと人間は、生まれてきたプロセスが真逆なんです。
コンピューターの最初は0と1の足し算で、この世で最も論理的なものでした。この足し算と引き算であらゆる命令を処理できるようにしたのがプログラムです。そして、0と1だけ世界を分かりやすくアルファベットにしたものが「プログラミング言語」であり、さらに分かりやすく画面タッチで操作できようにしたものが「GUI」です。そうしてスマートフォンやタブレット端末、声で操作できるスマートスピーカーやスマートウォッチなどが登場したのです。
一方、人間は生まれたばかりの赤ん坊の頃は、小指だけを動かすといったこともできません。そこから徐々に、自分の体や母親との関係が分かり、第三者との関係が分かるという感じで成長していきます。さらに言語のコミュニケーションを身に付け、最後にようやく論理的な思考ができるようになります。
昨今は「人間が機械に置き換わってしまう」「人間より機械の方が優秀だから」などと言われますが、機械は懸命に体を動かしながらコミュニケーションをして成長したわけじゃありません。だから、人間に勝てるわけがない。自分の体で気付き、知識を自分のものとして身に付けていくことができるのは人間だけです。人間は体を使い、細胞のように互いに支え合って生命知を発揮するから、コミュニケーションができるようになり、能動的に社会と関わっていくことができるのです。
【プロフィール】
松田雄馬(まつだ・ゆうま) 京都大学大学院卒業後、NEC中央研究所でオープンイノベーションを推進。MITメディアラボ、ハチソンテレコム香港、東京大学との共同研究を経て、東北大学との脳型コンピュータープロジェクトを立ち上げ、博士号を取得した後、独立。合同会社アイキュベータ(現(株)オンギガンツ)を共同設立し、大手企業のAI/IoTを中心とした新規技術開発・事業開発を支援。AIへの誤解を解き、豊かな未来を創造するための情報発信としてテレビ・ラジオにも出演し、多数の著作を執筆。