かつて長野県内の小学校で音楽科教員として勤務していた音楽家の原葉子さんは、合唱コンクールへの出場を重ねる一方、子どもたちに優劣を付けるコンクールの在り方に疑問を持っていたと話す。そうしてたどり着いたのが「オールエイジミュージック」という概念で、現在は幼児から高齢者まで全世代が参加できる「みんなで音楽隊」を主宰している。これまでの歩みを振り返りながら、音楽教育や部活動の在り方について原さんに聞いた。(全3回)
――原さんは学校現場で音楽科の講師をしながら、「オールエイジミュージック」を掲げて、さまざまな世代が参加する合唱・合奏の指導もしています。その他の取り組みも含め、現在の活動内容について教えてください。
私は現在、信州豊南短期大学の幼児教育学科や長野県高遠高校で非常勤講師をする傍ら、長野県伊那市高遠町で空き店舗を改装した「まちの縁側・夢見草(ゆめみぐさ)」というスペースを運営していて、ここでは音楽教室や歌声喫茶などを開催しています。「まちの縁側」は、社会福祉協議会が全国各地に設置認可している施設で、地域住民が集う日常的な居場所のことです。
「オールエイジミュージック」の具体的な活動としては、地域の誰もが参加できる「みんなで音楽隊」があります。メンバーは、幼児から小中学生までの子どもが10~20人ほどいるほか、その親御さんや私の勤務先の高校生や短大生、コーラス好きな大人などです。
名前を「音楽隊」としているのは、合唱もするし合奏もするからです。練習も「参加できるときに参加する」スタイルなので、トータルのメンバーは多いのですが、毎回必ず来る人はほとんどいません。でも、演奏会になるとちゃんと人が集まります。なので、演奏会で一緒にできるような曲を取り上げています。
――世代が異なるメンバーが一緒に歌ったりするのですね。どんな反応がありますか。
小さい子どもたちは、大学生や高校生に遊んでもらったりしていて楽しそうです。大人は音楽経験のある方もない方もさまざまです。高校生は部活動で忙しいので、当日のリハーサルからしか一緒に居られない生徒もいます。そのため、舞台の上で歌う曲はすぐに合わせられる曲、例えば「ふるさと」などを選んでいます。基本的に、メロディーさえ歌えればメンバーになれるというコンセプトです。
ハモれる人は勝手にハモってくれるので、聞いた感じはものすごく重厚です。メインのメロディーを歌っている人がほとんどですが、高校生がハーモニーを付けてくれています。高校生も自分たちが合唱を支えているのがうれしいらしく、「ハモるのは、自分らだけなんですか? じゃあ頑張りますね」と言ってくれています。もちろん、大人の中にも合唱が好きでハモってくださる方がいるので、「支え合い」みたいな感じになっています。
――原さんは以前、小学校の正規教員をしていたそうですが、どのような道のりを経て「オールエイジミュージック」にたどり着いたのでしょうか。
中高生の頃は吹奏楽部でトロンボーンをしていて、将来は吹奏楽部の顧問になりたいと考えていました。そのため、大学は信州大学教育学部に進みました。ところがそこで、すごく面白い声楽の先生に出会ったんです。それで当初は、オペラの道に進もうとしました。
――その先生の面白さとは、具体的にどういうものだったのでしょうか。
日本の音楽教育は「ドイツ式」の発声が多く、全員がそろった声で、お腹に力を入れて歌うという指導が主流です。でも、私にはそれが全く合わなくて、子どもの頃からずっと歌うのが苦手でした。ところがその先生は「イタリア式」の指導をされていて、「声なんか、みんな違うんだから合うわけがない」と話していたんです。
「みんなで合わせなくたって、良い合唱はできるよ」と、一人一人の声に合った指導をしてくださったのがとても印象的でした。もちろん、ドイツ式を否定する気持ちは全くなくて、当時の私には合わなかっただけで、今はそろえることの大切さも分かります。ただ、イタリア式の指導を受けて、「歌って面白いなあ」と思わせてもらえたのは確かです。それで楽器ではなく声楽の道に進もうと思いました。
――ドイツ式とイタリア式の違いは、現状の学校教育の課題にも相通ずるものがあるような気がします。
学校の音楽の授業で、歌が嫌いになってしまう子どもは少なくありません。もちろん、ドイツ式の指導をしている先生が全て、枠にはめる指導をしているわけではありません。でも、ドイツ式の発声は全員に同じゴールがあって、そこに近づけていく感じです。一方でイタリア式の発声は、その人その人の声の良さを磨いていくようなイメージでしょうか。
――でも、実際には声楽の道へは歩まず、教員になられたわけですね。
大学で教員免許を取った後、他の同級生はほとんど就職したのですが、私は研究生という立場で声楽研究室に残りました。ところがその直後に、先生が亡くなってしまったんです。もう、どうすればよいのか全く分からなくなってしまいました。
ちょうどその頃、地元の小学校で講師を募集していたので、年度途中から勤務することになりました。当時、恩師を失って途方に暮れていた私でしたが、学校に行くと子どもたちがいろいろな苦労があるのに一生懸命生きていて、その姿に励まされました。子どもたちのパワーで、救ってもらったんです。
――小学校の教員になられてからは、合唱コンクールでも実績を上げられるようになりました。その後の経緯を教えてください。
合唱コンクールでの実績については、前任の先生がすごく熱心に指導されていたので、その貯金をいただいただけです。私が担当してからは、成績も下がっていきました。私自身はむしろ、コンクールで上位を狙うような指導には否定的でした。
講師として勤務していた年度に学級担任もしていました。ところが、体育の指導が全くできず、とても苦労をしました。そもそも大学時代は、高校の音楽教員になって合唱部の顧問をしたいと考えていたので、正規教員の採用試験では「音楽専科希望」をアピールしました。そうしたら、偶然「合唱部の顧問」で、しかも全国大会常連校での勤務になってしまったんです。
でも、「音楽をやりたい」とアピールした以上、断れません。実際に着任すると、子どもたちが本当に休みなく練習していて、当時は休みが年に10日もないような状況でした。これでは子どもの成長にも良くないだろうと思って、年間計画を出す時点で練習日を減らしたんです。
すると、保護者からの抗議電話が鳴りやまなくて、「うちの子たちを見捨てるのか」なんて言われて大変でした。それで仕方がなく、当初から練習日を減らすことはせず、じわじわと減らしつつ、練習に遊びの時間を取り入れたりもしました。
――遊びの時間を取り入れて、保護者からクレームはなかったのでしょうか。
保護者には「みんなで遊んだ方が仲良くなって良い合唱ができる」と説明していました。もちろん、実際にそういう効果もあると思います。そうやって、少しずつ活動形態を変化させていきました。
【プロフィール】
原葉子(はら・ようこ) 信州大学教育学部(芸術専攻)で声楽を学んだ後、長野県内の公立小学校で教員を務める。現在、信州豊南短期大学幼児教育学科非常勤講師、長野県高遠高校音楽科非常勤講師、伊那市立長谷中学校音楽部地域指導員、伊那緑ヶ丘・敬愛幼稚園メロディタイム講師、三義音楽教室主宰などを務める。その他に、合唱団「リーフの会」(東京都多摩市)、「山すそコーラス」(長野県高遠町)、「みんなで音楽隊」(合唱・合奏)など、東京や長野で活動している。