【連載】「いじめ問題」の解剖学

 紙面に掲載した連載の初回分を紹介します。
立教大学文学部教授 北澤 毅

「なくせ」の逆機能①

いじめとは何か問い直す

 近年、「いじめ」が大きな教育問題になっていることは誰もが認めるところだ。その直接のきっかけとなったのは、平成24年7月に社会問題化した大津市の「いじめ自殺」事件だった。

 この事件を契機として25年6月に「いじめ防止対策推進法」が制定されるなど、「いじめをなくせ」という掛け声は大きな高まりを見せ、教育現場にも多大な影響力を及ぼし続けている。

 しかし「いじめ問題」が大きな注目を浴びたのは、今回が初めてではないということも、教育関係者なら誰もが知っていることだろう。

 「いじめ」が社会問題化してからすでに30年の月日が流れている。昭和60年1月に茨城県水戸市で起きた中学生自殺事件からはじまり、61年2月に東京都中野区の中学生が「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」と書かれた遺書を残して自殺をするまでのおよそ1年の間に、日本各地で次々と「いじめ苦」を動機とした中学生の自殺がマスメディアによって報じられ、日本社会は大きく動揺した。

 その後も、平成6年から7年、18年、そして24年の大津いじめ自殺事件と、子どもの自殺を契機として「いじめ問題」が社会的に注目されてきた。

 そのたびに、「いじめ」の構造が分析され、原因が探究され、問題解決のための対策が講じられてきた。にもかかわらず、同じような問題が繰り返され続け、今日にいたっているという事実を、まずは確認しておきたい。

 なぜ、いつまでたっても「いじめ問題」は解決しないのか。

 「いじめをなくせば、いじめ自殺もいじめ問題もなくなるはずだ」という模範解答が用意されているが、このようなあまりに分かりやすい主張には大きな落とし穴がある。

 たとえば、「いじめをなくせ」という語り方それ自体が、「いじめは死に値する苦しみである」ということを認める逆説的な機能を果たしているのではないか。

 さらには、長年にわたり、「いじめ」を自死と結びつけて語り続けてきたこと自体が、「いじめ問題」をめぐる独特の困難な状況を生み出しているのではないか、と問うてみる必要がある。

 それだけではない。「いじめをなくせ」というスローガンが、反論不能な正義の言説となることで、「いじめ」をめぐる多くの問題について語りにくい(語れない)状況が生み出されているように思われてならない。

 そもそも「いじめ」をなくすことは可能なのか。いや、そう問う前に、「いじめ」とは何なのか。「教師はいじめに気付くべきだ」と当然のごとく非難されるが、誰もがそれと分かるようなかたちで「いじめ」は存在しているのだろうか。

 おそらく、現場の教師をはじめ「いじめ問題」に関心を持っている人々のなかには、同じような疑問を抱き、釈然としない人が少なからず存在しているはずだ。

 本連載は、以上のような問題関心を基本として、「いじめをなくせ」といった分かりやすいスローガンとは明確に一線を画した上で、「いじめ問題」の解決に向けた全く異質の方策を示していきたいと思っている。

 学校現場では優先課題として取り組まれているのに、いじめはなぜ、なくならないのか。立教大学文学部教育学科の北澤毅教授は、いじめの解決法として「いじめ自殺」が暗黙の了解になってしまっていることがまず大きな課題であると提起する。では、どうすれば解決に向かうのか、この連載ではその糸口を見いだしていく。