【科学的リテラシーを全ての子どもに】 幾多の挫折をバネに

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 ペットボトル樹脂で放射線の計測に成功するなどして、数多くの賞を受賞してきた中村秀仁さん。だが、自身の母校であり、「Nプロジェクト」の舞台でもある大阪高校は、偏差値的には決して進学校ではない。そのようなキャリアを経て、どのようにして第一線で活躍する研究者になったのか。インタビューの第2回では、中村さんの生い立ち・キャリアについて聞きながら、研究者としての源流をたどった。(全3回)

高校時代は画家を目指していた

――「Nプロジェクト」の舞台である大阪高校は中村さんの母校でもあります。高校入学までの経緯を教えてください。

 中学時代は壮絶ないじめを受けていて、他人とはろくに話もできないような状況でした。その後、高校受験も第一志望に合格できず、失意の中で大阪高校に進むことになったというのが正直なところです。

高校時代のある日、恩師から「画家で生計を立てるのは難しい」と言われたと、当時を振り返る中村さん=撮影:佐藤明彦
高校時代のある日、恩師から「画家で生計を立てるのは難しい」と言われたと、当時を振り返る中村さん=撮影:佐藤明彦

 大阪高校では、当時画家としても活躍されていた美術科の先生のクラスになったことから、美術部に入部しました。さらに、その先生が描かれた日本画がデパートで高額販売されていることを目にしたことで、画家になろうと決意し、デッサンに明け暮れるようになりました。当時描いた100号の油絵は「復讐」というタイトルで、当時の私のストレートな心情を表現したものでしたが、父からは「このタイトルは良くない」と言われ、がっかりしましたね。でも、展覧会に出展して、多くの表彰も受けました。

 そのため、3年生の10月までは芸大に進学するつもりで、絵画の技術を磨くなどして、対策を積んでいました。ところがある日、美術科の先生から母と一緒に呼び出され、「画家で生計を立てるのは難しい」と言われたんです。一方で「3カ月あれば、総合大学に受かる」とも言われました。

――理由は何だったのでしょうか。

 今でもよく分かりませんが、芸術家として生計を立てることがいかに厳しいか、先生なりに感じておられたのかもしれません。「少子化時代に突入すれば、美術科教員になることも難しい」というような話もされていました。

――3年の10月というと、大学受験まで半年もありません。中村さん自身、納得はしたのでしょうか。

 はい。画家として活躍されるプロが言われるなら無理なんだろうと、きっぱり諦めました。背景には、先生に対する絶対的な信頼があったのだと思います。その点は、両親も同じでした。

 中学時代と大きく違い、大阪高校の先生は真摯(しんし)に私と向き合ってくれました。ある数学科の先生は、私が芸大受験のために数学の教科書を最後のページまで教えて頂きたいと伝えたところ、「もし、本気で勉強したいなら毎朝6時に学校へ来なさい。最後のページまで一通り教えてあげるから」と言ってくれました。そして、その日を境に、先生は始発で学校へ来て、3年間マンツーマンで6種類の教科書いずれも最後のページまで教えてくれました。私自身は今、始発に乗って研究所に来ていますが、それはその先生の影響を受けてのものです。

――受験まで残り半年を切った段階での進路変更だったわけですが、大学受験はどうだったのでしょうか。

 ボロボロでした。両親の工面で国立私立併せて計23回受験できたものの、23回不合格の通知を受け取ることとなってしまいました。そんな中、2月末になって甲南大学理学部から補欠入学の通知が届いたんです。ハガキ1枚の不合格通知と違い、大きな封筒にどっさりと書類が入っていました。だから、合格だと一目で分かりました。また毎回不合格通知を手渡してくれた郵便局の方も、今回は合格と察して「おめでとう」と言ってくれました。

母の病気を機に、放射線研究の道へ

――大学入学後の話を聞かせてください。

 高校受験でも大学受験でも失敗したので、大学では「もう、これ以上負け続けるのは嫌だ。せめて就職は自分の希望したところへ行きたい」と思っていました。また、高校も大学も私学だったので、これ以上は親に負担をかけたくないと思い、成績上位者になって授業料補助を受けようと思いました。そうして猛烈に勉強を重ねたところ、想像とは全く違う形で大学から補助を受けることができました。

 そんな折、大学の先生から「東京大学理学部を目指してみなさい」と言われたんです。当時は「自分が東京大学だなんて…」と思いましたが、ひとまず3年次の編入を目指し、東京大学のカリキュラムを調べるなどして編入試験対策を重ねました。

 ところが、その先生が突然「ここで4年間の学習を終えてから、大阪大学の大学院に行きなさい」と言いだしたんです。高校時代に続く突然の方向転換でしたが、この時も二つ返事で「はい。分かりました」と言いました。そうして大阪大学を受験し、今度は合格することができました。

 合格発表の帰り道、7年前に高校受験に落ちて泣きながら親に電話をした公衆電話がありました。その公衆電話から、今度は合格の報を親に入れました。本当にうれしかったですね。諦めなければ、時間はかかるかもしれないけど、必ず結果はついてくる。今もその時のことはよく覚えています。

――放射線の研究とは、大学院で出合われたのでしょうか。

 大学院では、素粒子・原子核の研究をしていました。その頃、母は数十万人に1人というがんに冒され、余命宣告をされてしまいました。すでに手術を繰り返していた母は、子宮を失い、肺の一部も失い、ついには脳に転移をして、私のことを指して本気で「おにぎり」と言うような状態に陥っていました。

放射線研究の道へ進んだ経緯について話す中村さん=撮影:佐藤明彦
放射線研究の道へ進んだ経緯について話す中村さん=撮影:佐藤明彦

 そんな折、当時最先端の放射線治療を試みたところ、奇跡的に脳の機能が回復して、私に向かって「秀ちゃん」と言ったんです。家族みんなで、驚きました。放射線治療の可能性を感じた私は、放射線の専門機関に就職して一流の先生方の力を借りれば、母を病気から救えるんじゃないかと考えました。それが、放射線の研究に進んだ経緯です。

ペットボトル樹脂の研究で、世界から認められる

――そうして放射線医学総合研究所に進まれた後、ペットボトル樹脂で放射線の計測に成功し、一躍「時の人」となられました。

 2008年の秋ことですが、夜の9時ごろに研究所の自動販売機にお茶を買いに行ったところ、ごみ箱の横にペットボトルが転がっているのが目に入ったんです。ふと、「これらを利用すれば、母でさえもすぐに使える診療装置を安く作れるかもしれない」と思いました。その瞬間、無我夢中でそれを拾い上げ、研究室に戻ってカッターで切り刻み、放射線を当ててみました。すると、ペットボトルが青く光りだしたんです。「これは世紀の大発見だ!」と、研究仲間と大騒ぎをしました。

 早速、その研究成果を英文の論文にまとめ、英国の王立協会に提出しました。その後、世界各国の研究者が私の実験結果を再現し、1週間足らずで瞬く間に「ペットボトルは放射線で光る」ということが世界に認められることとなりました。

――研究成果は、いろいろな賞も受賞されました。

研究成果について、文科省で記者会見に応じる中村さん=中村さん提供
研究成果について、文科省で記者会見に応じる中村さん=中村さん提供

 文部科学大臣表彰科学技術賞をはじめ、さまざまな賞を国内外からいただけました。また、ウォールストリートジャーナルのほかに、日本の新聞各紙からも取材を受けました。

 でも、母は救えませんでした。最後にみとったのは私で「秀ちゃん、本当にいい仕事をしたね」という言葉を最後に、他界しました。そして、それは母の長い闘病生活で、私自身の研究者人生が逆に救われていたことが分かった瞬間でもありました。その後しばらくは目標を失って、気持ちを維持するのが大変でした。

【プロフィール】

中村秀仁(なかむら・ひでひと) 2006年、大阪大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了。放射線医学総合研究所基盤技術センター博士研究員、研究員を経て、11年より京都大学複合原子力科学研究所助教。専門は光学、放射線計測、放射線教育、放射線管理。波長変換の本質的な意味合いに関する研究成果は、2度の文部科学大臣表彰科学技術賞をはじめ、「ナイスステップな研究者」選出など国内外から計23件の受賞をし、高く評価されている。

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