【思考する教室をつくろう】 留学後、日本初のPYP校へ

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 近年注目される概念型探究。その本質を知りたいと、公立学校を退職して米国留学の道を選んだ秋吉梨恵子さん。現地で学ぶ中で、「日本の教育の質がいかに高いか、客観的に見ることができた」と話す。インタビューの第2回では、公立小学校の教員になった経緯、二度目の渡米時の大学院での学び、帰国後のことなどを聞いた。(全3回)

「こんな仕事、絶対やらない」と思っていた

――高校を卒業後に米国の大学へ進学され、帰国後は小学校の教員になる道を選んだのですね。

 母が小学校の教員だったので、とても身近な仕事だったんです。母は、私たち子どものご飯を作ったり家事をしたりするために早く帰宅し、学校で終わらなかった仕事を家でやっていました。幼い私には、毎年同じことを繰り返しているだけで、つまらなく見えました。そうした姿を見て、当時は「こんな仕事、絶対やらない」と思っていました。

 でも、教育にはずっと興味がありました。米国の大学で学んだ後は、国際教育のプログラムがある大学院に入りたいと思ったんですが、そこは半年以上の異文化経験と1年以上の社会人経験がなければ願書も出せないところでした。そのため、日本に一度戻って、大学院に進学するためのお金をためようと思いました。帰国後は、母の紹介で学校にゲストティーチャーとして呼んでいただくことが多く、総合的な学習の時間の「国際理解」で米国での生活について話したりしていました。

――現地ではいろいろな経験をされたのですね。

 現地では大学での授業以外にも、半年ほど参加していた国際プログラムで、いろいろな国の人との交流がありました。また、大学があった地域は日本人というだけで珍しがられるところだったので、小学校から高校までいろいろな学校に呼んでいただいて、日本文化の話をしていました。

 そういう経験から感じたのは、「日本の子どもたちの反応が、米国やカナダなど北米の子どもたちの反応と全然違う」ということでした。また、いろいろな地域に行って感じたのは、日本の子どもたちがいかに恵まれているかでした。

 そうした肌感覚を持っていた私からすると、恵まれていることを実感できておらず、マスコミから「未来に希望を持てない若者」などと言われている日本の子どもたちは、すごくもったいないと思いました。そんな問題意識の中で、やっぱり子どもの頃に何に触れるか、どんなことを考えるかがとても大事だと思い、小学校の教員になろうと思ったんです。

日本がどれだけ恵まれているかを実感したと振り返る=撮影:市川五月
日本がどれだけ恵まれているかを実感したと振り返る=撮影:市川五月

日本の「当たり前」が現地ではそうではなかった

――公立小学校を退職後に留学した大学院では、どのような学びがありましたか。

 大学院で所属したAdvanced Studies in Teaching and Learningコースは、プログラム自体が「teacher as a resercher」を育てることを目的としていて、アカデミックなリサーチや手法をいかに学校現場へ実装していくかを大事にしていました。

 そのため、教室で理論的なことを学びつつ、頻繁にフィールドに出てケーススタディをやっていました。私はワシントンDCにある公立PYP校にインターンとして入り、そこでケーススタディを重ねました。クラスの観察から始まって、徐々に子どもたちとの関わりを深め、最後は実際に授業をやらせてもらいました。

――すでに小学校教員の経験を経ての留学でしたが、新たな気付きはありましたか。

 「学ぶ」「教える」ということに関して、日本では当たり前だと思っていたことが、実はそうではないことがたくさんありました。

 今でもよく覚えているのですが、留学後間もない頃、大学院の授業で「どんな教師になりたいか」、自分の教育観をエッセーにして提出するという課題があったんです。提出後に教授に呼ばれて、「『全ての子どもに学ぶ力がある』ということが、どこにも書かれていない」と言われたんです。

 それは日本にいたら当たり前過ぎて、わざわざ書くことではありません。でも、米国ではつい数十年前まで、「人種が違うと学ぶ能力に差がある」とか「経済的に厳しい家庭の子は到達できるレベルに限界がある」といった見方がまかり通っていました。だからこそ、わざわざ「全ての子どもに学ぶ力がある」と明記して、確認しないといけなかったんです。

 そういう背景を知って、どれだけ日本が恵まれているのか、日本の初等教育の質がいかに高いかを客観的に知ることができました。

 それから、今ではだいぶ変わってきているとは思いますが、私が日本の公立校で教えていたときは、クラスの中に日本語が話せない子はいませんでした。両親のどちらかが外国籍という子がクラスに1~2人いた程度で、基本的に全ての子が日本の文化の中で育っていました。

 でも、ワシントンDCの学校では、先生だけが白人で、クラスの半分がヒスパニック系、4分の1がアフリカ系、残りの4分の1がアジア系といった構成でした。そうなると、例えばテキストとして使用する教材で、主人公がどこの国・地域の人かによって、子どもたちの学ぶ意欲が大きく変わってきます。日本では考えたこともないような状況でした。

 子どもたち一人一人が、学習内容を身近に感じることがいかに大事かを目の当たりにしました。学習内容が身近であることの大切さは日本でもよく言われますが、教材の主人公がどこの国の人かなんて考えたこともありません。そういった文化的な背景の違いを痛感させられました。

日本では当たり前だと思っていたこととのギャップに驚いたという=撮影:市川五月
日本では当たり前だと思っていたこととのギャップに驚いたという=撮影:市川五月

「それは掃除夫の仕事だ」と言われショックを受けた

――日本の当たり前とは大きく違いますね。その他に、何か新たに得た気付きはありましたか。

 例えば、日本では小学1年生に「手はお膝、背中ピン」などとよく教えています。それに対する批判もありますが、姿勢が学ぶ意欲にどう関係しているかを脳科学の分野から分析しているレポートやテキストが、大学院の講義で出てきました。今まで日本の先生が感覚的に「こうした方がいい」と考えてやっていたことが、思い込みではなくエビデンスがあることが分かりました。

 また、家庭訪問や個人面談など、働き方改革やプライバシーの問題で削減傾向にある取り組みも、実は子どものバックグラウンドを理解する上ですごく大事だということを学びました。

 私が教員になったのは、2008・09年改訂の学習指導要領に移行する時期でした。ちょうど、それまで学校がやってきたいろいろなことを「このまま続けていいのか」と議論がされていた時期だったので、そういった観点からも頭の中が整理できたと思います。

――米国では日本の学校文化について話をして、驚かれることもありましたか。

 掃除の指導とか、道徳の時間を説明するのが、すごく大変だったのを覚えています。いくら説明しても「よく分からない」と言われました。ワシントンDCの学校では、子どもたちが自分の机に消しゴムのカスとかごみを乗せたままにしていたんです。注意すると、「それは掃除夫の仕事だ」と言われ、ショックを受けました。自分が大事だと思っていたことがなぜ大事なのか、どんな意味があるのかと深く考えさせられました。

――帰国後、再び教職に復帰されたとのことですが、経緯を教えてください。

 大学院を卒業する少し前に、日本初の初等教育プログラム(PYP)の認定校となった小学校からお誘いを受けたんです。とはいえ、大学院でまだ取るべき単位が残っていたので、「どこかのタイミングで渡米しないといけない」との話をしました。ありがたいことに、「それでもいい」と言ってもらえたので、帰国後にその学校に入り、PYPに関わるさまざまな取り組みを進めました。

日本初の初等教育プログラム(PYP)認定校となる小学校に復職した秋吉さん=撮影:市川五月
日本初の初等教育プログラム(PYP)認定校となる小学校に復職した秋吉さん=撮影:市川五月

【プロフィール】

秋吉梨恵子(あきよし・りえこ) 「概念型のカリキュラムと指導」公認トレーナー、IB Workshop Leader、マイクロスクールGIFT Schoolスタッフ。公立小学校退職後、欧米の学校を訪問しながら、大学院で国際バカロレア(IB)について研究。日本初の初等教育プログラム(PYP)認定校で、PYPコーディネーターとして探究のカリキュラムをデザイン・実践する。現在は複数の学校で、探究を中心としたカリキュラムデザインや教員研修を実施している。

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