仕事重視のキャリア教育を転換 多様な大人の生き方図鑑

仕事重視のキャリア教育を転換 多様な大人の生き方図鑑
希望する生徒を対象に行われたコンパスの使い方を学ぶ授業=提供:松原市教委
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 コロナ禍を経て、日本人の働き方や仕事観が変わりつつある中、学校でのキャリア教育も、その価値の転換を迫られているのかもしれない。大阪府松原市は8月26日、今年度から中学生が安心・安全な環境でロールモデルと出会える会員制ウェブサイト「COMPASS(コンパス)」を、静岡大学教育学部の塩田真吾准教授の研究室と共同開発したと発表した。多様な大人の生き方に着目し、いつでもチャットで本人とやりとりができるコンパスは、職場体験学習を中心とした中学校のキャリア教育の在り方に一石を投じるかもしれない。

多様な大人を集めたライフキャリアプラン図鑑

 「人生は『シゴト』だけじゃない。趣味、余暇、家事、子育て、そんな人生を楽しむ人を集めた新しいライフキャリアプラン図鑑」

 コンパスのトップページを開くと、そんなキャッチコピーが真っ先に目に飛び込んでくる。コンパスは松原市に所縁のあるさまざまな大人の「人生」を集めている。自分がどんなことを大切にしている人間なのか、これまでの人生で失敗したこと、ある1日の過ごし方などが、それぞれ1問1答形式で紹介されている。仕事についてだけでなく、趣味やプライベート、その人の人生観なども垣間見ることができる。多種多様な仕事について子ども向けに紹介した図鑑では、作家の村上龍氏による『13歳のハローワーク』が有名だが、それとは少し趣が異なり、一人一人の人物を掘り下げている印象だ。

 特徴的なのは、各人物の紹介ページの最後に付いているコメント機能。コメントには、その人への質問や感想などを投稿することができ、本人から返信も送られてくるようになっている。

 コメントはオープンチャットであるため、やりとりはコンパスにアクセスした人ならば誰でも読むことができる。もちろん、コメントを投稿する前に、誹謗(ひぼう)中傷につながる表現や個人情報を書いていないかを確認するようにし、もしそういった不適切な投稿があれば、サイトを運営する塩田研究室と市教委で削除・修正するようにしている。

 市教委では6月上旬から1学期終了までの間を試験運用期間と位置付け、希望する中学生に実際に使ってもらった。アンケートの自由記述では「COMPASSを使って、どんな仕事をしている人がいるのか、なぜその仕事をしているのかなどがすごく気になっていて、それもすごく丁寧に書いてくださっていた。読んでいてこういう仕事なのかと理解できた」「気持ち、感情の部分のレパートリーがとても少なかったなと思ったので、自分なりの単語を考えられる、作れる機能があったらいいなと思った」「もっと人を増えたら、比較がしやすく分かりやすい」などの声が寄せられた。市教委では、アンケートを通じて得られたデータや意見などを踏まえてサイトを改善し、本格稼働に向けて拡充させていく方針だ。

松原市で試験運用の始まったコンパスのウェブサイト
松原市で試験運用の始まったコンパスのウェブサイト

キャリア教育で重要なのは職場ではなく人とのつながり

 しかしなぜ、一地方自治体である松原市がこのようなサイトを作成したのか。美濃亮教育長はその理由を「学びへのモチベーションを高めることにある」と強調する。松原市では、学力の向上がここ数年の課題となっていた。授業改善や教師の指導力向上に取り組む一方で、全国学力・学習状況調査の結果などからは、学校外での学習や読書量の少なさ、ゲームに費やす時間の長さなどが浮かび上がってきた。「学校外の時間の使い方に何かしら手を打たないといけない。教育委員会として何ができるかを考えたときに、学びへのモチベーションを高めてもらうことなのではないかと考えた。そのためには、子どもたちがやる気や目標を持ってもらうこと、つまり、将来への展望や、こんな人生を送りたいと思ってもらうことが必要だった」と、美濃教育長はキャリア教育の重要性を挙げる。

 その半面、これまで中学校で実施されてきた職場体験学習を中心にしたキャリア教育には、こうした課題に十分に対応しきれない可能性があった。

 松原市ではコロナ禍で職場体験学習が中止されて以降、今後も再開の見通しは立っていなかった。職場体験学習は毎年決まった時期に、市内で協力してくれる事業所が受け入れてくれているが、どうしてもその業種や体験内容、受け入れのキャパシティーには限界があり、学校現場や事業所の負担も大きい。

 「どれだけ今の中学生の興味や関心にマッチした職場体験学習になっているか不安だった。そもそも今の中学生には、いろんなジャンルの大人と出会う機会が欠けているのではないか。着目すべきは職場ではなく、人なのではないか」と美濃教育長。コンパスはそんな問題意識から、従来の職場体験学習に代わるものとして生まれた。

 現在、図鑑に収録された大人は30人。弁護士やアナウンサー、イラストレーターなど、職場体験学習ではなかなか会えないような仕事に就いている人もいれば、大学生や市役所の職員、地域でNPOを立ち上げた人までさまざまだ。いずれも、市教委で面接を行い、コンパスのコンセプトなどを十分に理解してもらった上で協力してくれる人を選んだという。

 また、図鑑で紹介する大人は今後増やしていくことも検討しており、学校で外部講師を探す際の人材バンクなどとしても活用していく考えだ。

 不登校など、学校に来られない生徒もアクセスできるので、キャリアについて考えるきっかけになるかもしれない。このように、ウェブサイトの特性を生かしつつ、地域の大人の仕事だけではない多様な人生観に触れられるコンパスが持つ可能性は尽きない。

 「職場体験学習は実施時期も決まっていたし、学年で一斉にやっていたが、コンパスは生徒も大人もそれぞれのタイミングで見たり、コメントしたりできる。これならば、いろんな大人が中学生のキャリア教育の力になってくれる」と美濃教育長は期待を寄せる。

これからの人生で問われるのは余暇の使い方

 「われわれが着目しているのは、実は余暇にある」

 塩田准教授はコンパスに込めた研究の狙いをそのように語る。

 塩田研究室ではこれまで、企業などとタッグを組んで情報モラルなどの教材開発に取り組んできた。その一つに、生活の中でどんなことにどれくらいの時間を充てているかを意識させ、時間の使い方を考えてもらう「タイムマネジメント」の研究があった。

 塩田准教授は「ネットの使い過ぎに気付くには、タイムマネジメントはとても効果的だが、問題はタイムマネジメントによって生まれた、空いた時間をどう過ごすかだった。実際に調査してみると、『暇をつぶす』という回答が多かった。タイムマネジメントの研究でわれわれは『やること』に注目してきたが、本当は『やりたいこと』の方が重要なのではないか」と指摘する。タイムマネジメントで暇な時間が生まれても、やることがなくてスマホやSNS、動画鑑賞に費やしてしまえば、ネットの長時間利用の状況は変わらない。裏を返せば、今の日本には、余暇の過ごし方が分からない子どもが多いと言うこともできる。これは大人にも当てはまる。

 「ライフキャリアという視点で捉えると、本来は仕事以外に家族や学習、そして余暇も入るが、これまでのキャリア教育では仕事がメインになっていた。しかし、AIやロボットが仕事の中に浸透していくと、労働時間は短くなり、それ以外の時間が増えると予想される。日本の教育では余暇を扱うことはほとんどないが、むしろこれからは余暇の充実について学ぶべきだ」と塩田准教授。「そこでコンパスでは、これまでのキャリア教育のように仕事にフォーカスするのではなく、いろんな大人の人生の楽しみ方を紹介できるようなサイトにしたかった」と話す。

 コンパスでは「仕事タグ」「趣味タグ」「感情タグ」の3種類のタグから人物を絞り込むことができるようになっている。例えば、サッカーが好きだからサッカーに関する仕事から探そうとすれば、イメージはなかなか広がらない。しかしそこに、趣味としての「スポーツ」や感情としての「ドキドキ」が加わるとどうだろうか。このように、仕事タグだけでなく趣味や感情のタグを組み合わせながら探すことで、思いもよらない人物のページにたどり着くこともあるかもしれない。「こんなふうに生きたい」という人生のイメージは、必ずしも仕事だけではなく、プライベートでの何気ない共通点から、より豊かに広がっていくこともある。

 塩田研究室では、コンパスの活用状況を分析しながら、余暇を含めた生徒のキャリア観の変容を捉えていく予定だ。松原市をモデルケースに、他の自治体に展開していくことも視野に入れている。

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