【仏人記者が見た日本の教育】 日本で記者になるまで

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 日本に来てから20年以上、フランス人ジャーナリストとして日本について多くの記事を書き、著書を刊行してきた西村カリンさん。どのような経緯で日本に興味を抱き、日本に移り住んで、記者として仕事をするようになったのか。インタビューの第2回では、西村さんの幼少期から現在に至るまでの歩みを聞いた。(全3回)

教育環境の地域差が大きいフランス

 ――日本に来る前、フランスにいた頃の話を聞かせてください。

 18歳までブルゴーニュ地方にいて、高校を卒業後はパリ第8大学で学びました。学校は好きだったし、先生は良い人ばかりでした。自然が豊かでのんびりした地域の学校だったので、子どもたちは比較的おとなしく、勉強にも集中できる環境でした。

 一方でフランスの場合、パリなど大都市の郊外には貧しい家族がたくさん住んでいて、教育環境もあまり良くありません。加えてそういう地域には、教員になったばかりの人を赴任させる傾向があります。そのため、地域によって教育環境には大きな格差がありました。今はそうした格差が、さらに広がっていると聞きます。

 ――フランスには移民も多く、さまざまな人種の人たちがいる印象があります。

 「移民が多い」というより「多様性に富んでいる」といった感じでしょうか。例えば、両親ともフランス人だけど、祖父がアラブ系でフランスに帰化したとか、アフリカにルーツのある人だとか、実にさまざまな人たちがいます。彼らはみんなフランス人ですから「移民」ではありませんが、やはり差別を受けている部分はあります。大都市郊外の貧しい地域に住んでいて、十分な教育を受けられず、貧困のスパイラルに巻き込まれている人は多いですね。スポーツやアートなどの活動にもアクセスできず、自分を表現する機会がないため、犯罪などの問題を起こす人も少なくありません。

 エマニュエル・マクロン大統領はそうした状況を改善するため、第1期政権が始まった時に1クラスを12人にして指導を手厚くする政策を実行しようとしました。アイデアとしては良かったのですが、物理的に教室が確保できなかったり、教員が足りなかったりと、結果的には実現できない地域も数多くありました。

十分な教育を受けられず、貧困のスパイラルに巻き込まれている人がフランスには多いと話す=撮影:宮島折恵
十分な教育を受けられず、貧困のスパイラルに巻き込まれている人がフランスには多いと話す=撮影:宮島折恵

「日本のことを伝えたい」と思い、ジャーナリストの道へ

 ――現在はジャーナリストとして活動されていますが、子どもの頃から好奇心は旺盛だったのでしょうか。

 子どもの頃から自分の意見をはっきりと言うタイプで、クラス代表を選ぶ選挙には毎年立候補していました。クラス代表は、子どもたちの間で起きている問題をプライバシーに配慮しながら教員に伝えたり、先生たちの会議に参加し、その報告を生徒たちにしたりする重要な役割です。民主主義の本質を学ぶ上でも、とても良い経験だったと思います。

 ――そうした子どもだったということは、当時からジャーナリスト志望だったのでしょうか。

 ジャーナリストになるための学校には全く通っていません。中高生の頃は技術者になるのが夢で、大学では放送や音響に関する技術を学んでいました。大学在学中、インターンで大手ラジオ局に入って働いていたところ、局の人に「もう大学で理論的なことを学ぶ必要はない。ここで働きながら学んだ方がいい」と言われ、そのまま大学を中退して就職しました。その後は10年ほど、技術者として働いていました。

 ――日本に興味関心を持ったきっかけは何だったのでしょうか。

 ラジオ局にあった機材の多くが、ソニーやパナソニックなどの日本製だったのです。それで遠い国の大都市に行きたくて、「日本に行ってみたい」と思うようになりました。そうして実際に日本を訪ねたところ、私が知っている日本とはあまりにも違っていて、「フランスのマスコミは、なぜ日本のことを正しく伝えないのだ」と思い、「私自身が日本のことを伝えたい」と考えるようになりました。そうしてジャーナリストの道へ進むことになったのです。

 ――日本がきっかけで、ジャーナリストになったのですね。

 最初に日本のことを紹介する記事を書いたのは、技術者向けの専門誌でした。その後、日本とフランスを行き来するようになり、日本語を勉強しながら5年ほど取材と執筆をしていました。そんな中、世界的通信社であるAFPから、東京支局の特派員にならないかと打診があったのです。私自身はジャーナリストの学校に通った経験がなく、政治や社会の記事を書いたこともなかったので最初は断ったのですが、「とにかく一度、やってみたらいい」と言われ、そこで働き始めました。結果として、15年間もAFPで働くことになりました。

フランスにいた頃はジャーナリストではなく、技術者になるのが夢だったという=撮影:宮島折恵
フランスにいた頃はジャーナリストではなく、技術者になるのが夢だったという=撮影:宮島折恵

フランスで人気の日本文化

 ――その間に日本人の漫画家・じゃんぽ~る西さんと結婚されたのですね。差し支えなければ経緯を教えてください。

 私が本を出すために、日本のいろいろな漫画家に会って話を聞いていたのです。執筆が終わった後、フランスと日本の漫画家さんたちのパーティーがあり、そこで友人の記者に紹介された人の中に今の夫がいました。その本は、1850年代から現在までの日本社会の歩みと、日本で描かれた漫画や風刺画を対比して分析するもので、フランスで出版しました。私自身は当初、漫画にはさほど興味がなかったのですが、出版社からの提案を受けて、漫画を取り上げることになったのです。フランスでは日本の漫画やアニメが大人気で、多くの若者が「日本に行きたい」と思っているからです。

 ――フランスではなぜ、そんなに日本の漫画やアニメが人気なのでしょうか。

 もともとフランスやベルギーには「バンド・デシネ」と呼ばれる形式のコミックがあり、これと共通する部分があったのだと思います。今、フランスのコミック市場は「バンド・デシネ」が6割、日本の漫画が4割といった感じで、海外で最も日本の漫画が読まれているのがフランスです。

 また、日本の実写映画も、是枝裕和監督の『万引き家族』とか、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』とか、北野武監督の『バトル・ロワイアル』とか、とても人気があります。また、最近は和食のブームが起こっています。

 ――今後もずっと日本で活動していく予定ですか。

 私は子どもが生まれるまで、子どもがいない人たちとの付き合いが中心でした。でも、子どもが生まれると、全く異なるコミュニティーでの付き合いが増えました。子どもがいる人といない人の間には隔たりがあり、互いに交わることがあまりありません。

 私自身は、最初は外国人として日本社会を見て、結婚してからはまた異なる立場から日本社会を見て、子どもが生まれてからは親の立場から日本社会を見ています。つまり、自分の人生の局面ごとに、日本社会のいろんな側面を見てきましたし、それはこれからも続くと思っています。

自分の人生の局面ごとに、日本社会のいろいろな側面を見てきたと話す=撮影:宮島折恵
自分の人生の局面ごとに、日本社会のいろいろな側面を見てきたと話す=撮影:宮島折恵

【プロフィール】

西村カリン(にしむら・かりん) ラジオ・フランスおよび日刊リベラシオン紙の特派員。1970年生まれ。パリ第8大学を経てラジオ局やテレビ局にて勤務し、97年に来日。2000年からフリージャーナリストとして活動。04年より20年までAFP通信東京特派員。08年「Les Japonais 日本人」を出版。09年、同著書が渋沢・クローデル賞受賞。23年「Japon,la face cachée de la perfection(日本、完璧さの隠れた裏側)」、24年には初の小説「L'affaire Midori(みどり事件)」を出版。国家功労勲章シュヴァリエを受章。日本での著書に『フランス人ママ記者、東京で子育てする』『不便でも気にしないフランス人、便利なのに不安な日本人』(ともに大和書房)、『フランス語っぽい日々』(白水社)などがある。

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