気象予報士の長谷部愛さんの『天気でよみとく名画』(中央公論新社)は、製作時に画家が見ていた空の様子や空気感が伝わってくる。「気象」×「芸術」によって新たな絵の見方が広がっていく。「〇」×「△」は、異なる分野をコラボレーションすることで新たな価値を生み出すという思考である。さまざまな分野に興味関心を持ち、深い理解があれば、その相乗効果は無限に広がっていく。
気象予報士試験の合格率は5%前後、かなりの難関試験である。その試験に合格する女性は「リケジョ」(理系女子)ということになるのだろう。しかし、この言葉の裏には少なからず「女子なのに理系ですごい」という意味が込められている。いまだに日本の社会には、男子は理系、女子は文系といったアンコンシャスバイアス(無意識の偏見・思い込み)が根付いているのだ。
そのことが、女性の可能性を奪い、多方面での活躍を妨げることになっていないだろうか。さらに、リケジョと持ち上げることで、過度な期待やプレッシャーを感じさせることになっており、バイアスを強化する方向にも動いてしまっている。
世界経済フォーラムが発表している2024年のジェンダーギャップ指数を見ると、日本は146カ国中118位、特に政治と経済の分野で著しく低い。日本はジェンダー後進国なのである。
本紙電子版12月4日付が報じているように、小中学生ともに男子の方が各教科の平均点で優位であった。前回の調査では女子の方が優位だった教科もあり、この差は大きな問題ではない。全国学力・学習状況調査でも、正答率に性差がないことは明らかになっている。
問題は算数・数学や理科に対する「関心の差」である。「算数・数学、理科の勉強は楽しい」に対して、小中学生ともに、いずれの教科でも男子が優位となっているのだ。22年の全国学力・学習状況調査の結果分析では、理科についての女子の平均正答率は、男子より高いものの、理科への興味・関心を示す割合が男子より低いとの結果が示されている(本紙電子版5月16日付)。小学校の時代から理数に対するジェンダーギャップは厳存している。
このジェンダーギャップを作っているのは子どもたちではなく、日本の社会であり、大人たちである。子どもたちに最も近い保護者や教師自身のアンコンシャスバイアスが子どもたちに浸透していると考えるべきである。大人たちの「男の子は~」「女の子だから~」という言葉が子どもたちの人格形成に影響を与えていることを自覚しなければならない。
体育着や水着に男女の違いがなくなり、女子の制服もパンツルックを選択できるようになっている。既に学校ではジェンダーフリーの環境が整ってきているのに、マインドが追い付いていない。男子はこうあるべき、女子はこうでなければならない、などと考えている自らの思考の癖に気付き、是正していくことが肝要である。
ジェンダーギャップと同様、文系・理系と二項対立で考えることもナンセンスだ。現代の学問体系は複雑であり、理系、文系と分けることにどれほどの意味があるのだろうか。自分は文系(理系)と決めてしまうことで、社会人になってもそれを言い訳に、新たな学びへの挑戦を避けていないだろうか。
この二項対立は、社会人に求められるリスキリングへのハードルを上げてしまう。それは学生も同じだ。「自分は文系なので数学・理科は得意ではない」と最初から学びに背を向ける学生もいる。大学受験の弊害かもしれないが、高校時代に学びの幅を狭めてしまうことは、その後の人生にとってマイナスでしかない。
その意味では、大学の教養教育軽視の方向性も改めるべきである。広く深く学びながら教養を身に付けていくことの意義を再認識しなければならない。多様な見方・考え方を身に付けていることは、冒頭の「〇」×「△」の思考を増やすだけでなく、「〇」×「△」×「□」といったさらなる思考の拡大につながるのだ。
ジェンダーギャップによるステレオタイプ的な見方も、文系・理系の二項対立も、結局は多様性の理解の深さの問題である。人によって皆違う、単純には分けられないといった基本的な理解が重要となる。多様性の理解と包摂性への行動転換には、多様な人々との関わりやさまざまな分野での学びが必要になる。
さらにインターネット上では、ユーザーが好む情報ばかりが表示される「フィルターバブル」や、似たような情報や考えばかりが集まってくる「エコーチェンバー」の陥穽(かんせい)にも気を付けなければならない。