このコラムのタイトルである『鉄筆』。広辞苑には、「謄写版で印刷する文字などを原紙に記すのに用いる、先端を鉄製にした筆」とある。
中学生の時、学級新聞を作る係になった。当時は、今のような印刷機もコピー機もない。鉄筆で、やすり板の上に原稿用紙のようにマス目があるロウ原紙を置き、それに合わせてカリカリと文字を刻んでいく。その音が心地よかったし、マス目に文字を埋めていくのが楽しかった。その影響で今でも手書きの文字は活字のように角ばっている。昔、書道を習っていた時、講師が「文字は人なり、心の画なり」と言っていたのが印象に残っている。
中学校時代の思い出を2つ。保健体育の教師の文字は、右に30度くらい傾いていた。とても特徴のある文字だったが、生徒たちはその文字にも親しみを感じていたし、その教師に絶大なる信頼を寄せていた。塾の国語の教師の文字は、小学校低学年の子供が書くように稚拙だった。それでも、授業の板書も教材のプリントも丁寧に書く誠実さに生徒たちは一目置いていた。
教員時代、印刷物が手書きからワープロ文字に変わった時、たいした内容でなくても立派な文章を書いているように感じたのを覚えている。ただ、それも最初の時期だけだった。
今は、学習教材、学級通信、家庭への配布物など、ほとんどがパソコンで作成されている。文字も体裁が整っていて読みやすい。ただ、そこからは作成者の人柄は見えてこない。時には、手書きで作成した文書を子供や保護者に配布するのも新鮮でよいかもしれない。