「フィンランドも永遠に模索し続けている。決してユートピアや天国のような場所ではない」と語るのは、心理士として日本の学校などで勤めた後、現在は同国で研究者を務める矢田明恵さんだ。障害のある子への支援や福祉を専門とする矢田さんに、インタビュー前編では、同国でのインクルーシブ教育の現状や課題などを聞いた(全2回)。
――矢田さんはフィンランドで10年以上、いわゆる障害のある子への支援や福祉に関して広く研究を重ねていますね。教育先進国と名高いフィンランドでは、インクルーシブ教育も早くから推進されていたと思いますが。
こういう場ではフィンランドのいいところばかりが伝えられがちですし、私も日本で臨床心理士として小学校などで勤務し、日本のさまざまな現状を見た上でフィンランドに来たので、フィンランドのいいところをついフォーカスしてしまいそうになるんですが、実はフィンランドにも苦労しているところやネガティブな面はあり、親として不満なところもあります。
例えばフィンランドは2011年に「3段階支援」という枠組みを導入しました。この枠組みではまず、全ての子供を対象とする第1段階を「一般支援(general support)」とし、支援の必要性が感じられた時点ですぐに、補習授業などの支援をします。
第2段階は「強化支援(intensified support)」で、一般支援では不十分と考えられた場合に教育的アセスメントをして、数週間から数カ月をめどに目標を立てて学習計画を作成し、それが終わったところで継続するかどうか話し合います。
そして第3段階は「特別支援(special support)」で、広範なアセスメントに基づいて詳細な個別教育計画を立て、それに沿ってより長期的な支援をする。そういった支援の枠組みです。
ただそれを、突如やめることにしたんです。そして25年8月から、新しいシステムに変えることにしました。理由は、3段階支援で現場の先生たちがすごく疲弊してしまったからです。それを打破するためにシステムを変えるということで、「2段階支援にする」と発表されました。ですが、この2段階支援というのは、昔ながらの「一般支援」といわゆる「特別支援」に戻ってしまうのではという懸念があります。これには大学の研究者など有識者の間で、賛否両論あります。
フィンランドもいまだに、いまだにと言うよりも永遠に、「何が一番いいのか」というのを模索し続けています。決して、フィンランドがインクルーシブ教育を完璧にやっていて、ユートピアや天国のような場所だということではないのです。フィンランドなりの課題を抱えていて、試行錯誤しながら理想に近づけています。
だからこそ、フィンランドでうまくいったことや、失敗したことから、日本や他の国も学べると思うし、その中で日本なりのやり方を見つけていけばいいと思っています。
――ついフィンランドを理想化してしまいますが、実際にはさまざまな試行錯誤の過程があるのですね。3段階支援が始まった11年ごろは、インクルーシブ教育の歴史ではかなり早い段階だと思うのですが、そこにはどのような経緯があったのでしょうか。
サラマンカ宣言が1994年に採択され、「万人のための教育(Education for All)」が国際的に初めて明示されましたよね。北欧はもともと、デンマークでのノーマライゼーションの普及などもあって取り組みが進んでいたという背景があり、フィンランドでは1960年代ごろから、学校教育で大きな転換がありました。
それまではドイツやオーストリアと同様に、小学4年生になったら、アカデミックな方に進む人と職業訓練の方に進む人を学業成績などによって分けていたのですが、それを廃止して、全員が同じ場所で9年間学ぶスタイルに変えたんです。今はフィンランドは高校まで義務教育になったので、12年間になりました。
それで、今まで別々に教育を受けていた子供たちが一緒に学ぶ上で、何らかの支援が必要になるだろうということになりました。だから、国際的にインクルーシブ教育といったことが叫ばれるより前から、「特別支援教員」を普通校の通常学級に配置することにしたんです。
専門的な教育を受けた特別支援のスペシャリストが、クラス担任とは別に、通常学級に配置されるということです。私の子もフィンランドの小学校に通っているんですが、そこにもクラス担任の先生の他に、学年を見る特別支援の先生がいます。その先生は副担任のような形で学年に付いていて、特別な支援が必要なお子さんがクラスにいたら、授業に入って担任と一緒に教えたり、「算数が弱い」など特定の分野で困難がある子がいたら、弱い部分の授業の時に取り出して手厚い授業をしたりしています。
――特別支援教員ももちろん教員免許があるんですよね。以前この「先を生きる」で、『フィンランド人はなぜ午後4時に仕事が終わるのか』などの著書で知られる堀内都喜子さん(参照記事: 【フィンランド流・学びの描き方】 教員が頑張れる理由)が、「フィンランドでは教育学部の倍率が数十倍のところもあり、目指しても誰もが入れるわけではない」と話されていました。教員免許を取るまでの大変さに加えて、特別支援の専門性もある先生が、副担任として付いてくれるのですね。
そうなんです。それもフィンランドに来て衝撃を受けたことでした。私も日本で教員免許を取り、日本の学校で臨床心理士として働いていたので、特別なニーズのあるお子さんに対応するというのはすごく大変で、高い専門性が必要な仕事だと思っていたんですが、日本では当時、通常学級の担任をさせるのには不安がある先生を、通級や特別支援学級の担当にするといった学校がありました。
一方でフィンランドでは、特別支援教員は専門職として見られているので、給料も通常学級の担任より高いと聞いています。
それと、私は日本で小学校のスクールカウンセラーもしていたんですが、日本の小学校の場合、スクールカウンセラーの勤務日は週1回しかないのに、大変なマルチタスクでした。学習に困難がある子もサポートしなければいけないし、精神的な問題でクラスに入れない子もケアしなければいけない。さらには貧困やネグレクトといった状態にある子の福祉的な支援もあるなど、本当に多種多様な仕事を任せられる職種だったんです。
フィンランドの場合は、学習に困難があったり、障害などに起因する課題があったりする子は、その子の学年に毎日いて、専門性の高い特別支援教員がサポートします。
それ以外にも、週2〜3回来校するスクールサイコロジストがいて、うつなどの精神的な問題やいじめなどに対応します。その他、貧困やネグレクトにはスクールソーシャルワーカーが対応して、地域の支援につないでいます。専門性をきちんと分けてお子さんに対応するというのがすごく明確に見えるので、担任の先生は誰に相談すればいいか分かりやすく、安心できるという面があります。
――フィンランドのそういった話を聞くと、障害や家庭の問題などで困難を抱える子供に対するまなざしが、日本とは大きく違うのを感じます。
フィンランドでもそこには意識転換があったんです。現在フィンランドでインクルーシブ教育の基本になっているのは「ソーシャルモデル(社会モデル)」で、これは障害を個人の問題とせず、その個人の社会参加を困難にしている社会あるいは環境の問題だとする考え方です。
社会モデルが登場する以前に一般的だったのは「メディカルモデル(医療モデル)」です。これは、障害を個人の身体的・機能的問題と見なし、治療や訓練によってその個人が社会に適応できるようにするという考え方です。
メディカルモデルが診断ベースなのに対し、ソーシャルモデルはいわば「困っていることベース」です。この意識転換があったので、それがインクルーシブ教育の流れにフィットして、スムーズに移行できたのだと思います。
――日本ではまだ、「授業でデジタル教科書を使うのに診断書を取った」「加配を付けてもらうのに診断書が不可欠だった」というように、支援を受けるのは医師の診断を受けてからという考えがあります。一方で、一部の自治体では専門機関での初診が予約から半年〜1年後になるなど、医療につながるまでの課題も指摘されています。
誤解のないように言っておくと、私はメディカルモデルが悪いと伝えたいわけではないんです。治療や訓練でその人が生きやすくなるのであれば、医学の力を借りることはとても大切です。
ただ、私は日本で小児精神科での仕事もしていて、メディカルモデルに染まった人間としてフィンランドに来て、衝撃を受けたんです。
日本にいたときは、お子さんに課題が見られたら、まず診断を受けて、それに基づいたサポートをするというのが当たり前だと思っていたんです。ただ、私の勤めていた小児精神科も予約してから3カ月待つといった状況だったので、今困っているお子さんを3カ月待たせて、ようやく診察を受けられるようになったときには「もう困っていない」とか、あるいは「さらにひどくなってしまった」ということもけっこうあって、これでいいのかという疑問は抱いていました。でも、リソースが足りないという意味で仕方ないと思っていたんです。
それがフィンランドに来てみたら、「お子さんにサポートを提供するのに診断は要らない」と言っていて、最初は何を言っているのか理解できませんでした。自分があまりにもメディカルモデルに染まっていたので、「診断がなくて、どうやってサポートするんだろう」「アセスメントもしないのに、何をするんだろう」と思っていたんですが、要は「診断名を付ける」といったことをしないというだけで、アセスメントをしないという意味ではないんですよね。
子供に困り事やつまずきが見られたら、特別支援教員と担任、そして保護者と子供本人の話し合いの場を設けてアセスメントをし、必要となれば翌日にでも支援が開始されるんです。もちろん、より詳細なアセスメントをしたり、より適切な支援を提供したりするために、必要に応じて心理士や医師の意見を聞く場合もあります。でも、ソーシャルモデルを軸に考えると、「困っている」というのが社会参加への障壁の表れなので、そこにできるだけ早く介入することを重視するというのが、フィンランドのソーシャルモデルなのだと分かりました。
【プロフィール】
矢田明恵(やだ・あきえ) 公認心理師。青山学院大学博士前期課程修了。フィンランド・ユヴァスキュラ大学博士課程修了、Ph.D. (Education)。日本で臨床心理士として療育センター、小児精神科クリニック、小学校などにて6年間勤務。主に特別な支援を要する子供とその保護者および教員のカウンセリングやコンサルテーションに従事。夫と2013年にフィンランドに渡航。現在、ユヴァスキュラ大学およびトゥルク大学Centre of Excellence for Learning Dynamics and Intervention Research (InterLearn) ポスドク研究員、東洋大学国際共生社会研究センター客員研究員。