学習の苦手な子に対して、私は適切とは言えない指導をしてしまったことがある。
授業中、ある児童が手を止めていた。私は「どうして進んでいないの?」と問い掛けた。悪気はなかったが、その言葉は彼にとって「できない=駄目」というメッセージになってしまった。
できないことに出合うのは、成長のチャンスであるはずだ。ところが、当時の私はそれを問題として捉え、早く解消することばかりに目を向けていた。苦手な子どもほど、実は「伸びしろの宝庫」である。その後、私は子どもの努力の過程や工夫の姿に目を向け、見えない頑張りをいかにして発見し、言葉にするかを意識した。できないことに出合ったときこそ、教師としての出番であると気付かされたのである。
つまずいている子への支援に注力するあまり、できる子を「大丈夫な子」として扱ってしまった時期がある。その結果、ある子が「授業がつまらない」と訴えるようになった。
授業が「困っている子のためのもの」になると、先を行く子にとっては物足りない空間になってしまう。ユニバーサルデザインの考え方に出合ってからは、誰にとっても分かりやすく、深く学べる仕掛けをつくるようになった。視覚支援、板書の整理、発問の段階化など、小さな工夫の積み重ねが、全員にとっての学びやすさにつながる。また、オープンエンドの常時活動や発問の重要性に気が付いた。全ての子どもが自分のペースで成長できる授業を目指すことの大切さを、しくじりから学んだ。
教室の中にいるにもかかわらず、支援が必要な子どもたちへの視点が欠けていた。支援は特別支援学級の先生が行うものだと、どこかで線引きをしていたのかもしれない。
ユニバーサルデザインを意識した授業を組み立てるには、特別支援の視点が不可欠である。そのことに気付いてからは、支援級の先生との連携を積極的に図るようになった。どのような手だてが有効か、どのタイミングで声を掛けるべきか、支援のヒントは現場の中に数多く眠っている。支援は「誰かの仕事」ではなく、「私の仕事」でもあるし、「私のアイデア」より「より多くの人のアイデア」の方が多くの選択肢を得られることに気付いた。
このように、しくじりを通して気付いたのは、支援とは「特別な誰かのため」ではなく、「みんなのため」にあるということである。子どもたち一人一人が、自分らしく学べる教室づくり。そのための第一歩は、教師自身の気付きと学びから始まるのだ。