子どもと共に感動する 理科で大切にしたいこと(喜名朝博)

子どもと共に感動する 理科で大切にしたいこと(喜名朝博)
【協賛企画】
広 告

自然が教えてくれること

 本学で今夏、群馬県で行われた3泊4日のキャンプ実習。アクティビティや食事作りの合間に「先生、ナナフシを見つけた」と手に乗せて見せてくれた女子学生がいた。それを見て固まっている学生もいる。コクワガタを見つけたと喜んでいる男子学生もいた。子どもの頃からこうして生き物に触れてきたのではないだろうか。そんな姿が目に浮かぶ。同じ自然の中で生活し、同じ風景を見ていても、生き物の存在に気付く学生とそうでない学生がいる。それは、子どもの頃に生き物を探した経験の差だけではなさそうだ。

 また、本学の臨海実習では、水泳や救助法の実習とともに磯の生き物観察の時間がある。生き物を探している様子を見ていると、「きっといるはずだ」と思って探している学生は、見つけることができる。一方、見える範囲だけで表面的に探す学生は「ここにはいない」とすぐに諦めてしまう。

 教師を目指す学生にとって、この「きっといるはずだ」と思って探す姿勢はとても大切だ。彼らが教師になって出会うであろう子どもたち、その一人一人に可能性があり、伸びる芽を持っている。その伸びる芽は「必ずある」と思って見いだし、伸ばしていくのが教師の仕事だ。表面的な児童理解では、教師の責任を果たせない。自然に接することは、教師としての在り方を教えてくれる。

パターン認識は思考停止を生む

 理科を教える立場になったときの不安や心配事を学生たちに聞いてみた。最も多いのが科学的知識の量、次いで植物や生き物の名前を知らないことだった。子どもたちに「先生、これ何」と聞かれて、答えられない自分を想像するのだろう。しかし、何でも知っていることは教師の条件ではない。「何だろう。面白いね」「きれいだね」と、共に感動し、一緒に調べればよいのだ。調べるすべを持っていることが教師の条件なのだ。

 自然と接する中で、動植物の名前を特定することは逆効果になることもある。人はさまざまな情報をパターンで認識する。木の枝のような生き物を見つけ「あっ、ナナフシだ」と思った瞬間にナナフシの知識が再生され、じっくり見ることを止めてしまう。言葉や概念は、思考を省略したり、止めたりする方向に働くことがある。

 「あの子は発達障害だから」とレッテルを貼ることで思考を停止し、その適切な対応を取らないのも、パターン認識の危うさだ。知識や概念を獲得している大人は、対象をじっくり見ることを省略してしまう傾向にある。日々成長していく子どもたちを相手にする教師は、このことを深く自覚していなければならない。

まず、感動。知識は後からでいい

 自然の美しさや感性の大切さについて書かれたレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』にこんな一文がある。「美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたび呼びさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります」。

 名前を知ることは後でいいのだ。まず、対象の面白さや不思議さ、美しさに感動する時間が重要だ。そして、そんな子どもたちの感動や気付きに共に感動できる教師こそ、いい教師だ。さらに言えば、理科に限らず教科の指導に不得意さを感じているとしても、その教科を嫌いにならないことが教師の条件だ。教師の不安は必ず子どもたちに伝わる。小学校教員養成課程は文系のイメージが強い。しかし、全教科を担当する小学校教員には、文理の区別なく、全ての教科に関心を持っていなければならない。

STEAM教育を文理融合教育の端緒に

 「理科離れ」という言葉が叫ばれて久しい。それにあらがうように「リケジョ(理系女子)」がもてはやされているが、それこそ女子の理科離れを表している。子どもたちの理科離れを作ったのは、高校段階での文理選択が一因だ。理系は難しい、就職も限定されるというイメージを作り上げてしまった。今こそ教科の枠組みを再構築する必要がある。

 その端緒になるのがSTEAM教育ではないだろうか。理数教育推進のための方策のように思われがちだが、文系・理系の壁を取り払い、各教科を横断する単元を創造する新しい教育の在り方だ。国語や英語はその土台となる。「総合的な学習の時間」や「総合的な探究の時間」をさらに充実させるとともに、文系教科を理数的思考で解決し、理数系教科を文学的に読み解くという、文理融合の教育を進めるべきである。

広 告
広 告