インクルーシブ教育 国連勧告を真摯に受け止めよ(喜名朝博)

インクルーシブ教育 国連勧告を真摯に受け止めよ(喜名朝博)
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世界標準とかけ離れた独自解釈

 国連の障害者権利委員会は今年9月、「障害のある子どもの分離された特別教育が永続している」として、特別支援教育の中止を勧告した。それに対し文科省は「日本の施策は障害者権利条約のインクルーシブ教育の実現に沿っている」との見解を示した。通級指導教室の存在がその根拠のようだが、論点をずらす、お得意の「ご飯論法」にも聞こえる。

 国が言っているインクルーシブ教育は日本独自の解釈であり、世界標準とかけ離れている。障害の有無を問わず、あらゆる子どもたちが同じ教室で学ぶことが求められているのであり、特別支援学級などの分離教育がおかしいとされているのだ。国連勧告を独自の解釈でかわす姿勢は、どこかの国のような危うさを感じる。

「可能な限り」という常とう句

 インクルーシブ教育について、文科省は「インクルーシブ教育システムの理念の構築に向けては、障害のある子供と障害のない子供が可能な限り、同じ場で、共に学ぶことを追求する」と説明している。勧告後の永岡桂子文科相の会見でも「可能な限り」と繰り返し発言しており、文科省の常とう句となっている。「現行制度の中で可能な限り取り組んでい(き)ます」とする、行政が多用する責任回避の言葉に聞こえる。この「可能な限り」が問題の根本だ。

 結局、文科省の「可能な限り」は、何もしないと宣言しているのと同じだ。今年4月の文科省通知「特別支援学級及び通級による指導の適切な運用について」やその批判への見解を示したQ&Aは、まさにこのスタンスだ。「本通知は、特別支援学級で半分以上学ぶ必要のない児童生徒については、通常の学級に変更することを促すとともに、特別支援学級在籍者の範囲を、そこでの授業が半分以上必要な子供に限ること等を目的としたもので、むしろインクルーシブを推進するものです」。

 現状ではこのように回答することしかできないのだろうが、勧告の趣旨からはかけ離れている。

「あの子は特別支援教育だから」が生む分離

 校内交流や副籍交流など、学校は可能な限りインクルーシブ教育の実現のために工夫している。障害の有無に関係なく同じ場で教育を受けることは、子どもたちの人権を守ることだ。さらに、学校からインクルーシブ社会を創ろうという発信でもある。

 インクルーシブ教育は、全ての子どもたちの生き方を考える教育だ。自分自身も多様性の一部だと気付くこと、その多様性にこそ価値があると実感すること、さらに包摂性が保障された集団の中で一人一人が大切にされなければならないこと。そんな学校、そんな社会を創っていかなくてはならない。「可能な限り」が日本のインクルーシブ社会の実現を遅らせている。

 「あの子は特別支援教育だから」という教師の言葉には、ニーズに応じた対応を考えなければならないという責任感と同時に、どこかに「特別支援学級に行ってくれればいいのに」という思いも生まれる。自らの専門性と人的配置の不足がそう考えさせてしまう。これが分離教育なのだ。

 教師にこのような思いを持たせてはいけない。現在の特別支援教育が進めば、障害の有無で人を判断することを助長することになりかねない。区別は差別につながる。昨今、そんな発言や事件が多発しているではないか。この日本の空気を変えなければならない。

次期教育振興基本計画にも「保険」が

 「通常の学級に在籍する障害のある児童生徒への支援の在り方に関する検討会議」でも議論されているが、国連勧告を真摯(しんし)に受け止め、特別支援教育の在り方そのものを根本的に見直し、方向転換していくべきである。一人一人の成長とウェルビーイングを保障するために、専門性の高い教員や専門スタッフの配置、校舎のユニバーサルデザインなどにより、真のインクルーシブ教育を実現していかなくてはならない。勧告を契機にムーブメントを起こし、社会全体で議論が活発になることが期待される。

 審議中の次期教育振興基本計画では、ウェルビーイングが上位概念として位置付くイメージ図が示された。「多様な個人それぞれが生きがいを感じられる社会に」とあるが、それは包摂性のある集団や社会の中で実現していくものである。イメージ図には「社会的包摂」という言葉があるものの、集団の中の個人という視点が薄いことが気になる。また、「日本社会に根差したウェルビーイングの向上」というキャプションの「日本社会」という文言にも、「可能な限り」という文言と同じような保険がかかっているように見える。

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