次期学習指導要領改訂 公立教育は形骸化の岐路にいる(鈴木寛)

次期学習指導要領改訂 公立教育は形骸化の岐路にいる(鈴木寛)
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 2023年を迎え、次期学習指導要領の改訂に向けた議論が少しずつ始まっていくことになる。公立教育がこのまま形式的平等主義に基づく一律一斉型の学校運営を続け、文科省がこれまでと同じように10年に一度の学習指導要領の改訂作業を淡々と行うのであれば、不登校の児童生徒はさらに増え、経済的な条件が許す家庭の子供は私立学校への進学をますます選んでいくだろう。その結果、公立教育は確実に形骸化していく。これからも公立教育を意味あるものにしていこうと思うなら、もっと多様な学びを実践できるように、一律一斉型を卒業して公正な個別最適化と協働学習ができる公立学校を作っていかなければならない。次期学習指導要領の改訂作業は、公立教育が形骸化するかどうかの岐路に立っていることを強く認識し、今の学習指導要領をそのままのフォーマットで継続することはあり得ないというところから議論をスタートさせてほしい。

多様化する子供たちに、1本の学習指導要領では対応できない

 まず、私の持論を申し上げると、そもそも次期学習指導要領は本当に作るべきなのか、と思っている。少なくとも、高校については学習指導要領を廃止した方がいい。それに代わって、それぞれの高校が学習計画を作るのを支援するため、国立教育政策研究所がさまざまな大学と共同で参照となるものを作ればいい。例えば、筑波大学が社会科を作るとしたら、東京学芸大学は国語と数学とか、工業高校用には東京工業大学に頑張ってもらうとか。東大は理科を作ったり、同じ社会科も複数あったりしていい、筑波大学だけではなく、広島大学が別のものを作ってもいい。

 それぞれの高校は、各教科について国立教育政策研究所とともに大学が作った複数の選択肢から、自校に最適なものを選び、組み合わせてカリキュラムを構成する。カリキュラムの『カスタマイズ制』と言ってもいいだろう。ピザを注文するようなイメージで考えると分かりやすい。生地のバリエーションに薄いものや厚いものなどいくつかあって、そこにチーズやサラミ、エビなどのトッピングを好きなように選んでいく。その順列組み合わせは膨大な数になるので、各高校は自校にぴったりのカリキュラムを作ることができる。

 なぜ、こういう対応が必要かというと、高校生はすでにものすごく多様化しているからだ。これに1本の学習指導要領で対応するのは、そもそも無理がある。個別最適な学びをやるのであれば、究極としては、児童生徒一人一人が全員違う学習計画をつくらなければならない。そうした一人一人に合わせた「学びのデザイン」を作るためには、児童生徒は、プロフェッショナルである教員のアドバイスを受けながら、自分に合った学びを複数の選択肢からトッピングし、自分で選んでいく。デジタル教科書が普及していけば、児童生徒は自分が選んだカリキュラムに合わせて、教科書や教材を使えるようになる。

 大切なのは、今のフォーマットの学習指導要領を続け、これほど多様化している児童生徒の全員に対応させようという考え方を手放すこと。これまでの学習指導要領を一度ばらしてアンバンドル(まとまり解き)する。そして、コンポーネントを再構成して、それぞれの学校や児童生徒が自分たちに最適なものを組み合わせていく。そのときに文科省による強制権力は必要ない。だから、国立教育政策研究所がコーディネートして、信頼できる大学に研究費も渡して専任のユニットや研究者を置けるようにして、いろいろなタイプの参照となるカリキュラムを作ればいいと思う。

 小学校と中学校の学習指導要領については、小学校低学年、小学校高学年、中学校、この3段階に分けて考えないといけないだろう。小学校低学年はかなり共有性の高いもので、中学校は高校に近い個別性の高いもの、小学校高学年はその中間になる。中学生の学習指導要領と小学校低学年の学習指導要領を一緒くたに議論することに、もう無理がある。従来の学習指導要領に代わる参照になるものが複数出てくるとなると、科目分類も再度見直す必要がある。生活科ができたときに、理科と社会に分かれていたものが合体したように、科目を大くくりにすることもあるかもしれない。

認知特性に合わせた「学びのデザイン」が必要

 これまでの学習指導要領は知識やスキルをコンテンツとして書いてきた。だが、これからのガイドラインは知識やスキルよりも、アティテュード(態度)とバリュー(価値)に触れるように改めていく必要がある。経済協力開発機構(OECD)が『学びの羅針盤』(Learning Compass 2030)で明示しているように、学びの中核的な基盤は「カリキュラム全体を通して学習するために必要となる基礎的な条件や主要な知識、スキル、態度、価値」にある。日本の学習指導要領はこれまで知識やスキルを書いてきたが、どういうアティテュードやバリューや学び方を身に付けるのかが大切なのだから、もっとそこに触れていかなければならない。

 これは、ある意味で、教育の権力性との関係も出てくる。アティテュードを権力を持った国が決めるのは危険をはらんでいる。だから、学習計画の参照となるものは、非権力機関である国立教育政策研究所がオーガナイズして、学術機関と協力しながら作成するのがいいと思う。いろいろなアティテュードをどのように獲得していくのかについて、押し付けにならないように、複数の選択肢とか幅を持たせることが望ましいだろう。アティテュードとかバリューに関する話は、少し権力から距離を置いておく方がいい。

 もうひとつ、現在の学習指導要領に決定的に欠落しているのが、認知特性の問題に触れてないということ。『公正な個別最適化』という考え方が誤解されている、あるいは矮小(わいしょう)化されているのが私は非常に残念だと思っているのだが、『公正な個別最適化』の一番の入り口は認知特性にある。

 例えば、文科省の特別な教育的支援を必要とする児童生徒の調査結果によると、読み書きに著しい困難を示す児童生徒は小中学生で3.5%いた。いわゆるディスレクシアならば1割、セミディスレクシアだと3割ぐらいいるとも言われている。つまり、文字を読むのが苦手な子供がそれだけいる。認知特性には、文字などの視覚優位、聴覚優位、あるいはその両方のバランスがあって、触覚から入った方がいい子供もいる。五感のどこから入るのが一番いいのかはその子供によって全部違うし、当然、学び方もその子供の認知特性によって違う。

 だから本来、それぞれ認知特性に合わせた学習方法の指針があってしかるべきだと思う。それをベースに一人一人の児童生徒の認知特性に合ったカリキュラムを、組み合わせながら構成していく。それが個別最適な「学びのデザイン」になる。

 言い換えれば、ベーシックな法律やルールを守るといったアティテュードは全ての子供が身に付けなければならない必要なものだが、法律やルールを学ぶのに、読んで学ぶ子と、聞いて学ぶ子がいる、ということ。そうした認知特性を含め、脳科学や心理学などがかなり進化してきたので、次期学習指導要領には最新のサイエンスに裏付けられた知見をきちんと取り入れていくことが大切になってくる。

中教審への諮問に向け、構想力やビジョンが問われる

 こうした次期学習指導要領を巡る論点は、日本の公立教育が多様な学びを実践できるかどうかという本質的な問い掛けにつながってくる。これまでの一斉一律型を貫いた場合には、不登校はさらに増大し、公立教育が見捨てられる。これは、はっきりしている。

 文科省によると、小中学校の不登校児童生徒数は2021年度に24万4940人に達した。公立学校の中学生は20人に1人が不登校になっている。不登校のうち15万6009人は学校内外で相談や指導を受けているから、フリースクールなどで学校以外のオルタナティブな教育を受けていることになる。これは17年に施行された教育機会確保法で認められていることなので、学校外で学ぶ児童生徒はこれからも指数関数的に増えていくだろう。いまの公立教育は、子供たちが求める多様な学びに対応しきれていない。

 このままでは公立学校への就学率はますます減少していく。一方で次期学習指導要領が学校現場で実施される30年度ごろには、民間企業とかNPOとか非公教育はいまよりももっと進むので、人々は公立教育以外に頼る度合いがますます強くなる。結果として、公立教育はますます軽視されていくしかない。

 公立教育の空洞化は、すでに進んでいると見ることもできる。東京の港区や千代田区では、中学生の4割から5割が私立に進学しており、学習指導要領を参照しつつも、学校独自のカリキュラムで学んでいる。さらに言うと、私立学校やフリースクールに行くためには経済的な余裕も必要になるので、私立学校やフリースクールで学ぶ児童生徒が増えることは格差や分断の悪化にもつながっていく。このままでは公立学校には、私立にもフリースクールにも行けないボトム層が集まるという悪循環になってしまう。

 公立教育をこれからも意味あるものにしていくなら、多様な学びに対応するために、カスタマイズできるように変えていかなければならない。逆に言うと、公立教育が形式的平等主義による一斉一律型から卒業して、『公正な個別最適化』にかじを切ることができれば、引き続き公立教育は世の中に必要なものとして理解され、人々からの信頼や支持を取り戻すことができる。

 次期学習指導要領は24年度ごろから中教審での議論が本格化するだろう。中教審での議題は、文部科学大臣からの諮問で決まる。その諮問の内容は、時の政権や文科省に構想力やビジョンがどこまであるか、に懸かっている。多様な学びを求めるニーズに公立教育がどう答えるか。この問いに正面から取り組み、学習指導要領の前提や枠組みを根本から見直していかない限り、公立教育は確実に形骸化していくだろう。いま、日本の公立教育は大きな岐路に立っている。

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