昨今、アクティブ・ラーニングの必要性がこれほど強調されるのは、求められる資質とは裏腹に、日常の学びの大半が生徒にとって受け身なものとなっているからです。
やや極端に言えば、多くの子どもたちの学びはテストのための学びになっています。授業での学びの到達状況をテストで点検し、課題があれば改善してその後に生かす、その繰り返しです。この構造が子どもたちの受け身の姿勢を助長しているように思います。
先ごろ大学入学試験の記述式問題に関する議論がありましたが、記述式であろうと、マークシート方式であろうと、テストは問題に生徒が答える形をとります。必ず問題があり、これに回答する形式です。問われたことに早く、正確に回答する能力が学力とされるのです。
もちろん、全ての授業がこのような問いと回答という一方通行の形なのではなく、さまざまな方法を取り入れながら展開されています。しかし、テストはどうしても問いと回答という形式にならざるを得ません。学校教育の柱に学力の育成があり、その測定をテストで行う限り、受け身の学習観を根本的に克服するのは難しいのではないでしょうか。
一方、学校生活におけるさまざまな生徒の行動を評価する取り組みもなされています。しかし私は、いま述べた学びにおける受動性を克服せずに、その他の行動で主体性を求めても限界があると思います。ましてやその評価が入試などに活用されるとなると、逆効果にならないかと危惧しています。主体性とは自らの意思で考え行動する姿勢であり、ボランティア活動にしても部活動にしても、受験対策として行われるべきではありません。本来の活動目的とは別の評価軸が加えられることで、自分自身のやりがいや充足感が、別の評価に呼応する感覚にすり替わってしまう恐れがあります。
このように外側から強いられた主体性を求められ続けることで、よい子を演じようとする子どもが増えたとしても、決してプラスにはならないでしょう。そう考えると、現在の学校教育という枠組みの中で、主体性を育む構造的な困難性にぶつからざるを得ません。せめて授業の中に、テストと無関係に知りたい、友人と議論してみたいと思えるものを加えていくことを手放さないでほしいのです。また、生徒を学校に閉じ込めてはいけないとも感じます。アクティブ・ラーニングの方向性がそういうものであってほしいと願っています。