現代アートにおいて、アーティストが表現をするテーマはさまざまです。個人的な体験や記憶に重きが置かれることもあれば、社会的な出来事やイデオロギーへの批判が込められること、自然現象や科学技術などが開く表現を追求することもあります。そんなテーマの違いはありますが、優れた作品に共通して見られる特徴があります。それは、これまでの常識的なモノの見方に問いを投げ掛けようとすることです。
西洋美術の歴史には、前の時代の表現の常識を否定して常に新しい表現を目指す「革命」への志向が脈々と流れています。その流れが受け継がれた現代アートも、それまでの常識に対して常に批判的であることが特徴の一つとも言えるでしょう。その点は、伝統の継承を重んじる日本の芸術や芸能とは少し異なるところかもしれません。
そんな現代アートの流れが生まれる出発点になったのが、マルセル・デュシャンの「泉」という作品だと言われます。この作品はデュシャンが店で購入した男性用の小便器に署名をして「泉」というタイトルを付けただけのものです。それがそのまま展覧会に出品する作品として提出され、大問題になりました。無審査で出品できる展覧会にもかかわらず、結局展示が許可されなかったのです。そもそも便器自体も既製品で、作ったのもデュシャン本人ではないので、芸術作品として認めないというのは「常識的」な判断でしょう。
しかし、この作品によって、なぜこれがアートになり得るのかを巡って、「作品とは何か」「作家とは誰か」「その価値は誰が決めるのか」「そもそもアートや創造性とは何を指すのか」など、さまざまな本質的な問いが提示されることになりました。私たちが作品や美術に抱くイメージや固定観念が裏切られ、初めて「常識とは何か」が浮き彫りになったと言えるでしょう。革命を仕掛けるには、それまでの常識や慣習、伝統や権威、主流な表現やモノの見方を理解する必要があります。つまり、ルールを理解しないとルールを破ることもできないのです。
現代アートが難解で理解しにくいと感じるのは、この常識を裏切ろうとする部分にあります。これまで多くの作家が絵画や彫刻という表現の境界線を壊し、美術や芸術の固定概念をつぶして、かつてない表現を探求し尽くしてきました。現代アートの本質とはこうした破壊や革命の中にあり、その果てに今では表現の常識やメインストリームがどこにあるのかすら、もはや不明な状況になっています。
その一方で、そんな現代アートには社会の常識を相対化して批判する役割が期待されてもいるのです。まさに常識的なモノの見方を破る訓練として、現代アートは最適だと言えるでしょう。