現代アートにおいて、作品の「価値」は鑑賞者に委ねられるのですが、実は作品の「創造性」も鑑賞者の見方に委ねられることがあります。現代アートおける作品の多くは、あんぐりと口を開けて与えてくれるのを待っているだけでは意味がわかりません。鑑賞者が能動的に関わることによって、初めて意味が理解できるものが多いからです。作品から何かを訴え掛けてくることもありますが、受動的に見るだけでは何も得られず、鑑賞者から積極的に作品を「読み」に行かねばならない場合も多いのです。
そのため能動的に見るだけではなく、創造的に見ることができるかどうかが重要になります。マルセル・デュシャンの既製品の便器(第5回参照)には、作品の創造性はどこにあるのかという問いが含まれていました。自らの「手」で作ったわけではないものに、新しい見方を提示したことに本人の創造性があり、その創造性は「目」に宿っていることを主張したからです。
この作品以降の現代アートにおける創造性は作家だけではなく鑑賞者にも開かれ、読み取りによって作品が完成する可能性が開かれました。創造的行為はアーティストだけでは完結せず、それを見る鑑賞者と共に紡がれていくのです。
そのため、ある作品を目の前にしたときに、作者の意図や狙いといった正解を探すだけではなく、自分から能動的に読み取り、いかに面白い解釈ができるかも重要になります。見ると言ってもさまざまな見方があります。正面から見るだけでなく、異なる角度や距離から眺めたり、作家の制作プロセスを追体験するように見たり、作品のイメージから別のものを連想して見たりすることもできます。そういう意味では、鑑賞者の創造性を喚起させるような仕掛けや問いに満ちた作品が、優れた作品と評価できるのかもしれません。
現代アートの中には見るだけではなく、積極的に鑑賞者が関わるようなものもたくさんあります。伝統的な名画や歴史的な彫刻ではあり得ないような、触ったり登ったりできる作品や、中には持って帰ることができる作品などもあります。そこでは、自ら主体的、能動的に身体で関わることで初めてつかめる感覚や意味が仕込まれています。従来のようにありがたく鑑賞する態度で遠くから眺めるだけでは、何も得られないでしょう。作品の意味のつくり手は作者だけではなく、鑑賞者もその一端を担っているからです。そうした作品と出会ったときこそ、モノの見方を変えるチャンスになるでしょう。