現代アートに限りませんが、アーティストは自らの個性と感性をよりどころにして何かを表現します。誰かに指示されて作品を作るわけでもなく、たとえクライアントがいたとしても、自らの表現においては自ら責任を取る覚悟があるはずです。そこで表現されるものは非常に個人的な問題かもしれませんし、誰とも共有できないようなことかもしれません。しかし、それ故に自らのアイデンティティーをかけて表現をしていることが少なくありません。
たとえ集団で制作していたとしても、アーティストは「個」としてのスタンスでいます。会社や組織の中で与えられた役職や社会的な立場として何かを表現するのではなく、あくまでも個人として何かを社会に表現するのです。誰もがおかしいと思わないことに疑いを抱き、大勢に嫌われることを知りながら表現したものには、私たちが忘れていたり見落としていたりするような大切なことや普遍的な真理が潜んでいる可能性があります。そんな作品が放つ声に耳を傾けることで、私たちは自らのアイデンティティーと出会い直すチャンスを得られる場合があるのです。
私たちが日常生活の中で自分のアイデンティティーと本当に向き合う瞬間というのは、それほど多くはないかもしれません。何かの言い訳をつけて、誰かのせいにして、正当化することで、多くの場合は自分の本心と向き合うことから逃げることもできます。しかし、現代アートの鑑賞において、そうした態度で作品と向き合うのは非常に残念なことだとも言えます。
現代アートは頭で理解する知的な営みである一方で、自分を安全な場所に置いて外から眺めているだけでは何も得られないこともあります。それは作品と自分との物理的な関わりだけではなく、心理的な関わりにおいても同様です。どこか他人事として鑑賞できる作品がある一方で、「あなたはどうなのか」と迫ってくる作品の場合は特に鑑賞の態度が大事になります。アーティストが自分のアイデンティティーと徹底的に向き合い、その答えとして出した表現が、そのまま自分のアイデンティティーへの問いとなるからです。それは作品を通じたアーティストとの対話であり、鑑賞する側にもそれなりの態度と覚悟が問われます。
しかし、その営みは必ずしも厳しいことばかりではなく、自分自身に対する思い込みや執着、トラウマや孤独などが解体されていくような体験を得られることもあるのです。誰とも共有できない悩みを抱えがちな世代には、こうした作品との出会いが、その後の人生に大きく影響する可能性もあります。そうした体験は、学校教育の中ではなかなか得難いものなのかもしれません。