本連載ではこれまで、現代アートのポジティブな側面を述べてきましたが、もちろん問題もたくさんあります。まず言うまでもありませんが、全ての作品が素晴らしいわけではないことです。現代アートには基本的に機能や有用性がなく、どうしても必要性があるというものではありません。アーティストの個人的な欲求によって表現されるのであって、社会の中にそれがないと物理的に困るというものはないのです。そういう意味で、役に立つために作るわけではない現代アートはごみと紙一重で、社会的には「壮大な無駄」を生み出していると考えることもできます。
そのため、アーティストやアート関係者の言葉に簡単にだまされないことも大事になってきます。なぜならアーティストの表現の根底を占めているのは、エゴイスティックな動機であることがほとんどだからです。また、ギャラリストの目的は作品を売ることであり、コレクターの動機も所有するものの価値を高めたいのです。それ故、アートに携わる人々は、その作品や現代アートそのものがいかにも価値があるかのように演出しようとします。その価値が分かりにくいからこそ、あらゆる言葉で埋め尽くして説得をしようとするのですが、それは逆に言葉で埋め尽くさないと価値が感じられないことの裏返しでもあります。そこを賢く見抜く必要があるでしょう。
だから自分には全く価値が感じられないようなアートを無理に評価する必要はありませんし、価値を感じられないことに卑下する必要もありません。たとえ大勢の人が素晴らしいと評価する作品であっても、いくら栄えある賞が与えられていたとしても、著名な評論家が絶賛していたとしても、自分が感じることの方が正解ということもあります。多様な作品の表現が担保されている中で、どれか一つが誰か一人にでも響く可能性があるのはとても大事なことですが、逆に自分には響かないアートが自分にとって意味がない場合もあるのです。現代アートを礼賛する必要など、まるでないのです。
もう一つ重要な点は、作品を見た感想を必ずしも言葉にする必要はないということです。現代アートの鑑賞は頭による知的な部分が多いのは事実ですが、それでも言葉では説明できないからこそアートという表現が取られます。鑑賞して感じたことが素直に言葉になるのであればよいのですが、感想を述べるために鑑賞するのは順番が逆です。言葉で解釈しようとすることで、逆に自分が感じた細かい感覚が覆い隠されてしまうこともあります。言葉とは何かを限定することでもあり、言葉が逆に自分の感覚をだましてしまうこともあるのです。それだけに、安易に感想を求めることも時には慎まねばならないでしょう。