【 哲学対話のフィロソフィー(1)】哲学対話と教育、そして政治

【 哲学対話のフィロソフィー(1)】哲学対話と教育、そして政治
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 「アンパンマンが顔を他人にあげることは自己犠牲?」「才能があるとは?」「コミュ力って何?」

 これらは、筆者が学校で「哲学対話」という実践を行った際に出てきた問いです。いずれも、小学生~高校生から出たものです。

 哲学対話は、答えが一つに定まらないような哲学的な問いに対して、対話を通して考え続けることを目的とした実践です。「結論を出すこと」や「論破すること」を目的とするものではなく、一見すると答えがなさそうな問いでも、簡単に投げ出さず、他者の話に耳を傾け、自由に思考し、考えることを諦めないということに最大の価値を置いています。

 私は、現代政治学を一つの専門とする傍ら、学校の内外で哲学対話の実践を10年ほど行ってきました。「政治学者がなぜ?」と思う方もいると思いますが、私の答えは主に以下の2つにまとめることができます。

 1つ目は、「言葉に対する感度を高めること」です。善い政治は言葉を大切にし、悪い政治は言葉に対して不誠実なこと(例えば、政治家がうそをつくことなど)が多いです。哲学対話では、子どもたちは自分たちが普段使っている言葉に対して「それって実際どういう意味なの?」と問い合い、自分たちの言葉で再検討します。哲学対話でじっくり吟味された言葉が日常の場面で出てきたとき、対話を経験した人はふと立ち止まって考えるようになります。哲学対話は「言葉に対して誠実な社会」をつくる基礎となるのです。

 2つ目は、「自分とは異なる立場の考えを受け止めること」です。現実の政治では、相手の意見を真剣に聞いたことがないのに、「あいつは間違っている!」と決め付ける人を多く見ます。そうした態度は政治を通して善い社会をつくる上で、不誠実なものです。他方、考えることを目的とする哲学対話では、異なる意見を聞くことを強く求めます。哲学対話では、異なる意見でも頭ごなしに否定するのではなく、まずは受け止めてみて、「なぜ違うのか?」をしっかり検討し、さらなる思考の糧にしていくことを促していきます。

 とはいえ、哲学対話はいつもうまくいくわけではありません。実際にやってみると、さまざまな課題に直面しますし、うまくいかないときも多々あります。でも、私はそれで哲学対話をすることを簡単に諦めてほしくないと思っています。

 哲学対話についてはすでに教育新聞でもいくつかの記事が出ていますが、この連載では哲学対話に対して不安や期待などさまざまな思いを持った人に向けて、国内外の事例なども出しながら、その考え方やスタンスを解説していきたいと思います。

【プロフィール】

西山渓(にしやま・けい)1990年生まれ、埼玉県出身。立教大学文学部教育学科卒。同大学院修士課程修了。キャンベラ大学(オーストラリア)熟議民主主義とグローバルガヴァナンス研究センター博士課程修了。オーストラリア国立大学上級研究員、同志社大学政策学部助教などを経て、現在、開智国際大学教育学部専任講師および関西大学法学研究所嘱託研究員。子どもの哲学・哲学対話に関する国際学会International Council of Philosophical Inquiry with Children (ICPIC)元理事。専門は熟議民主主義論と、それを応用した子ども・若者の学校内外での政治経験に関する研究。映画『ぼくたちの哲学教室』の字幕監修を務めた。

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