宗教的・政治的対立が今なお続く北アイルランドの男子小学校で、哲学をベースとした学校生活を送る子どもたちと先生の姿を描いたドキュメンタリー映画『ぼくたちの哲学教室』が話題となっています。この映画の中に、「どんな小さいことでも言葉にする価値がある」というせりふが出てきます。
哲学では偉い人たちに忖度(そんたく)せず、何を言ってもいいからこそ、思考が広がり、深まっていく――。こうした考えは、哲学対話では比較的広く共有されています。
今回はこの「何を言ってもいい」について考えます。
教室や学校は、なかなか「何を言ってもいい」場にはなれません。授業のとき、大人と話すとき、友達と話すとき…それぞれの場では「言っていいこと・いけないこと」が習慣的に決まっており、子どもたちはその場に応じて言葉を使い分けます。だからこそ「何を言ってもいい」自由な場としての哲学対話に魅力や新しさを感じる人が多くいるのは、よく分かります。
他方で、いざ哲学対話を実践してみると、ある人は「何でも言える」けれど、必ずしもみんなが「何でも言える」わけではないということにすぐに気付くでしょう。なぜでしょうか。それは、哲学対話も教室や学校と同様に、一つの「関係の場」だからです。哲学対話は決して子どもたちの日常生活から分離したものではなく、むしろそうした場と密接につながっています。それ故、誰が「何でも言える」かは、対話に先立って存在する人間関係やアイデンティティーに大きく左右されるのです。
特に「差別」や「家族関係」のような繊細なテーマでは、マジョリティーの子が無意識の思い込みや偏見も含めて「何でも言える」のに対し、マイノリティーの子は「マジョリティーが何でも言っている場」それ自体を危険だと感じることがあります。マイノリティーの子が勇気を出して何か言っても、適当に流されたり、偏見にまみれた応答が返ってきたりすることがあるかもしれません。そうした状況がある中で、「哲学対話では何を言ってもいいから」と言って無理に対話を進めると、かえって子どもたちの分断や排除を招くことすらあります。
哲学対話は、特定の人が知を独占する閉じた実践ではなく、みんなで知を深める開かれた実践です。そのため、哲学対話を実践する人は、対話を始める前に「今日の問いで何でも言えてしまうのは誰か」を必ず自分に問い掛けてください。それによって、「何でも言えない」人でも対話ができるように問いを組み替えたり、いつもより気遣いのあるファシリテーションをしたりするようになるでしょう。