前回は、哲学対話の「何を言ってもいい」ということの意味を考えました。その内容を踏まえて、今回はもう一度「問い」について、第2回とは異なる観点から考えてみます。
哲学対話では、さまざまな事柄が問いの対象になります。子どもたちに問いを出してもらうと、あっと驚くような問いが出てくることが日常茶飯事です。
しかし、たとえどれほど哲学的な問いであっても、どれほど多くの人の興味を引くような問いであっても、問いはいつでも中立的とは限らないということは、常に意識しておく必要があります。
どういうことでしょうか。例えば、ある哲学対話で「男と女で恋愛観はどのように違うのか」という問いが出されたとします。確かにこの問い自体、答えが一つではないし、探究すればそれなりに面白い論点が出てくるかもしれません。しかしこの問いは、「人間は男と女のどちらかに属する」というジェンダー・バイナリー(男女二元論)を前提としている点に注意すべきです。この問いが設定されたことで、自分の存在が脅かされていると感じたり、その対話の場にいることに居心地の悪さを感じたりする人もいるかもしれません。言い換えれば、この問いが設定された時点で、誰が「何でも言える(言えない)」かが決まってしまうことがあるのです。
「哲学は真理の探究が目的だから、どのような問いでも堂々と検討すべきだ!」と考える人もいるかもしれません。しかし、近年では「哲学」の名の下で、ハラスメントや差別が横行していることも、ようやく問題視されるようになりました。例えば、イギリスに支部を持つ「マイノリティーと哲学」という団体は、みんなが自由に哲学をするためには「セーファー・スペース(より安全な空間)」が前提となるべきだと考え、その課題とマジョリティーの責任について書いたポリシーを公開しています(このポリシーは最近、哲学対話に従事する有志によって翻訳されました。日本語版はこちら)。
自由な思考は哲学対話の基礎です。しかし、もし「自分の自由な思考」が「他人の自由な思考」を封じ込めているのであれば、それはみんなで自由に考えるという哲学対話の理念と反することになります。そして、もし特定の問いが特定の子から自由な思考を奪いかねないならば、その問いを別の形に組み替えてから対話を始めたり、場合によってはその問いを扱わなかったりする勇気を持つことも大事です。これも「問いにこだわる」ということの一つの在り方です。