「発言者が少なくて、対話が盛り上がらないんです」
教室で哲学対話を実践している先生から、時々こうした悩みを聞きます。哲学対話をやってみたら、思ったより意見が出ない、黙っている人が多い、盛り上がっていない…だから自分は哲学対話に向いていないと思ってしまう、という悩みです。
今回は哲学対話での「沈黙」に焦点を当て、考えてみます。考え続けることを目的とする哲学対話で沈黙があることは、果たして「対話が盛り上がっていない」ことを意味するのでしょうか。
ちょっとずるいように思われるかもしれませんが、この問いに対する私の考えは「はい」と「いいえ」です。というのも、この問いにどう答えるかは、私たちがどんな種類の沈黙に直面しているかによって変わってくるからです。
沈黙と哲学対話の盛り上がらなさが結び付くとき、そこには2つの意味の沈黙があります。一つは「黙らされている」という意味です。第3回で書いたように、マジョリティーの子が何でも話すことができ、マイノリティーの子が黙っている状況では、マイノリティーの子にとって沈黙は押し付けられたものとなります。そうした沈黙は、結果として対話から言葉と思考を奪うこととなります。
もう一つは「問いが分からない」という意味の沈黙です。問いがきちんと吟味されないまま対話が行われたり、教師が一方的に問いを押し付けたりすると、子どもたちは「今、何について話しているんだっけ?」「なんでこの問いについて話しているんだっけ?」と、ある種の迷子状態になります。そうした状態では積極的に発言をする理由が特に見当たらないため、子どもたちは沈黙を選択するのです。
他方で、沈黙が哲学対話の盛り上がりと強く結び付くこともあります。それは「考えることに没頭している」ときです。哲学対話の中で問いがどんどん深まっていくと、子どもたちが本当に考えたかった「さらなる問い」がどんどん出てきて、自分たちが思っていたより問題が複雑であることに気付きます。複雑に絡み合った問いと問いの中で、子どもたちはひたすら考えることに集中することを余儀なくされます。こうなると、沈黙が数分以上にわたって続くこともあります。それは決して盛り上がっていないのではなく、逆に「哲学的に盛り上がっている」状態とすら言えるでしょう。
このように、大事なことは、沈黙があるからといってすぐに「盛り上がっていない」と結論を急がないことです。実践者がすべきことは、沈黙に出くわすたびに「どの沈黙か?」を問い続けていくことなのです。