「生きづらい人がいるのは分かったが、自分には関係ない」 私はしばしば、そうした反応を受け取ります。また、心理職や教師を目指す人から「生きづらい人のために何かしたい」という声を聞くこともあります。
本連載ではこれまで、不登校やいじめなど、学校現場での具体的な生きづらさについて触れてきました。今回は少し引いた視点から、生きづらさと教育について考えてみます。
小学校で「ジェンダー平等」について学んできた息子が言いました。 「なんで男だからって怒られるの?」 日本のジェンダーギャップが先進国中最低レベルであること、特に政治・経済分野で男性優位であることを学ぶうち、息子は「男が悪い」と言われた気がしてしまったようでした。
いじめについて考え、対応することは困難です。困難さの一つに、「見えにくさ」があります。現代的ないじめでは、「いじめっ子」と「いじめられっ子」が固定的に存在するのではなく、加害者と被害者が入れ替わったり、傍観者が加害者に無言の支持を与えたりするなど、周囲が把握しにくいことが指摘されてきました。
ある先生から「最近の不登校の親子はあまり悩まないようだ」という話を聞きました。「かつてなら親は必死で登校させようとし、子どもは神経症のようになっていた。でも近頃は、学校に来なくても淡々としていることが多い」というのです。どう考えたらよいのでしょうか。
学校を巡る生きづらさについて、私自身の身近な経験から考えてみます。私は今、中学2年生、小学5年生、3歳児を育てています。....
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