本連載ではこれまで、不登校やいじめなど、学校現場での具体的な生きづらさについて触れてきました。今回は少し引いた視点から、生きづらさと教育について考えてみます。
臨床心理士の東畑開人さんは、「生きづらさ」という言葉が広まり始めた2000年あたりを、個人の心に照準する「自意識」の時代からグローバル化の下で熾烈になる競争にいかに勝ち残るかが重要となる「市場」の時代への転換点だったとしています(「自意識から市場へ」『臨床心理学』19-1、2019年)。新たな時代では、人は自己の内部だけではなく、自己が置かれた社会環境について考えざるを得なくなり、成功のための自己啓発本などが流行します。ところが、そこで想起される外部世界とは、かつての「政治的に団結して社会の在り方を変える」というような公共空間のイメージではなく、「どのくらい自己の資本的価値を高め有用化できるか」という市場だというのです。
教育も同じではないでしょうか。1990年代ぐらいまでは、ゆとり教育に象徴されるように個性に応じた関心や意欲が重視されていました。教育の価値は教育領域に閉じており、後に学力低下や格差拡大といった「社会」の視点がなかったとして批判されました。
ところが2000年代以降、キャリア教育やICT教育などが注目されるようになり、不透明な世界でどうサバイブするかが重視されるようになりました。教育は外部世界との接点を取り戻しましたが、それはもっぱら市場です。「自分らしく生きる力」から「競争社会を自己責任で生きる力」への転換とも言えるでしょう。
子どもたちは学校で、従来の暗記や計算に象徴される学力に加え、留学などで異文化体験を積んだり、目標を立てて達成できたかどうかを自己評価したりと、絶えず自己を省みながらステップアップしていく資本的価値を身に付けるよう促されます。子どもだけではありません。こうした力は子どもだけでなく親や教師にも求められており、生きづらさは膨らみ続けています。
「生きづらさは固体と社会の接面で生じる」と東畑さんは言います。この生きづらさに、教育はどう対応していけるのでしょうか。市場競争をサバイブすることで対応せよ、とする自己啓発的な知識はちまたに溢れています。そこから教育という人を育む専門性によって一線を画し、「社会」を市場だけでなく異なる他者と共生する公共空間としてイメージできるかどうかが、問われていると思います。