いじめについて考え、対応することは困難です。困難さの一つに、「見えにくさ」があります。現代的ないじめでは、「いじめっ子」と「いじめられっ子」が固定的に存在するのではなく、加害者と被害者が入れ替わったり、傍観者が加害者に無言の支持を与えたりするなど、周囲が把握しにくいことが指摘されてきました。
この「見えにくさ」は、実際にはより複雑だと感じます。私は大学の授業でいじめ問題を取り上げますが、学生の話を聞くと、誰が被害者や傍観者などであるかさえ、分かりにくくなっているように思います。
例えば、一見仲の良いグループでいじめが生じる場合があります。ふざけながらみんなで特定の子の持ち物に水を掛けたり、消しゴムを小さくちぎって使えなくしたりしますが、やられている本人は笑っており、登下校なども一緒に行動しているので、周囲は「こういうノリなのかな」と流します。当の本人は、嫌だけども「いじめではない」と自分に言い聞かせているのかもしれません。ここには明確な被害者がおらず、従って加害者もいません。
被害認識があっても、嫌がらせの仕方が巧妙で、被害者以外が認識できない場合もあります。持ち物を移動させたり(隠すのではない)、こそこそとメモ(本人にだけやゆを感じ取れる微妙な言葉)を見せて侮辱したりするなどの行為です。被害者は孤立しますが、その傷つきは周囲に見えません。ここには傍観者がいません。教師に訴え出ても「気のせいでは」「証拠がない」などと言われることもあります。
これらに、周囲の大人はどう対応できるでしょうか。法律に基づくいじめの定義では、本人が「心身に苦痛を感じている」ことが重視されますが、前者のような事例では、仮に本人が笑っていても、あえて踏み越えて加害側にやめるよう介入することが重要だと感じます。
また、後者の事例では被害者の訴えを過小評価せず、「何が起こっているのか」を丁寧に探ることが必要でしょう。子どもたちの関係性に分け入れば、被害者の傷つきを察する敏感な証言者に行き着く可能性があります。
いじめについて大学生に尋ねると、いじめを経験したことが「ある」と答える人は8割以上に上ります。いじめは日常的に生じており、なくすのは現実的に難しいものがあります。だからこそ、「適切に介入すれば止められる」という経験を、一人でも多くの人に持ってほしいと切に願います。