「生きづらい人がいるのは分かったが、自分には関係ない」
私はしばしば、そうした反応を受け取ります。また、心理職や教師を目指す人から「生きづらい人のために何かしたい」という声を聞くこともあります。
共通するのは「一部の生きづらい人と多数の生きづらくない人がおり、自分は後者だ」という感覚です。しかし本当にそうでしょうか。
本連載の第1回で、生きづらさとは「個人化した人生の苦しみを表す日常語」だと書きました。現代では人生経歴は不透明で、「高校を出れば人並みに就職も結婚もできる」という見通しはなくなりました。自由が増えたかに見える一方で、人々は自らをコントロールして「社会から必要とされる存在」になるよう迫られています。激烈な競争に不安を抱いても、政治的主張にはまとまらず、個々で抱えるしかありません。そう考えれば、「誰もが生きづらくなり得る社会」になっていると言えます。「今たまたま生きづらい人」と「生きづらくない人」がいるにすぎないのではないでしょうか。
教育について言えば、今学校に行っている子どもでもいつ不登校になるか分かりません。また、うつの教師のしんどさは、今はうつでなくても過重労働に疲弊する教師のそれと連続性があります。
もちろん、「同じように生きづらいのだから分かり合える」と一足飛びに言うことはできません。人は階層やジェンダー、国籍などの点で多様であり、そこにはマジョリティー/マイノリティーという非対称性があります。マジョリティー側が安易に「自分も生きづらい」と言えば、そうした権力関係を隠ぺいすることになり得ます。
その点に注意しつつ、でも「私」と「生きづらい人たち」の間に対話の可能性を見いだすにはどうしたらよいのでしょうか。解はありません。ただ、重要なのは「生きづらさを抱える人の問題を解決してあげること」ではなく、周囲の側が「自分もまた生きづらくなり得る存在だ」と気付くことを通じて、潜在的な弱さの自覚を基盤とした共通理解をつくっていくことではないか、という気がします。
市場競争が自己やキャリアの領域にも広がる現代、今「勝っている」としても「将来にわたって勝ち続けられる」とは限りません。老いやケアに携わるなどで弱さを抱えることは、誰にでも必ずあるのです。「生きづらさ」という言葉が力を発揮するとしたら、そのように連帯に開かれたときだと私は思っています。
(おわり)