【子どもを苦しめる「生きづらさ」の正体(6)】生きづらさを「聴く」

【子どもを苦しめる「生きづらさ」の正体(6)】生きづらさを「聴く」
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 ある先生から「最近の不登校の親子はあまり悩まないようだ」という話を聞きました。「かつてなら親は必死で登校させようとし、子どもは神経症のようになっていた。でも近頃は、学校に来なくても淡々としていることが多い」というのです。どう考えたらよいのでしょうか。

 第一に、不登校が問題というより「一つの進路」になっている可能性があります。現代ではオンラインの活用などにより、学びの選択肢が増えています。通信制高校は増加傾向にあり、義務教育期に不登校でも高校進学がしやすくなりました。教育機会確保法が成立し、フリースクールなどの認知も進んでいます。背後には「不登校でも独自のやり方で学べば問題ない」という「多様な選択」の発想があります。

 一方で、近年指摘されているのは、家庭の経済状況や養育基盤の脆弱(ぜいじゃく)さが背景にあるケースです。貧困で親に余裕がなく子どもを放置しがち、家事やケアを子どもが担っている、といった場合は登校へのプレッシャーは弱く、行かなくても問題視されにくくなります。そもそも1960年代に「神経症的登校拒否」が発見されるまでは、長期欠席といえば貧困や病気によるものが主でしたから、こうしたケースは2000年代以降、「子どもの貧困」という問題提起を経て「再発見」されたと言えます。いわば「学校からの漏れ落ち」でしょう。

 この2つは対照的に見えますが、実際は交ざり合っていることも多いと思います。家庭で問題を抱え、しんどくても友達や先生には言えず長期欠席していたが、自分に合った学びを探すうち受け止めてくれるフリースクールに出合った、という具合にです。

 「不登校とはどんな経験なのか、どんな支援が必要なのか」。不登校の像が複雑化する現代、それは学校の先生にとって分かりにくくなっていると同時に、不登校を生きる本人や親にとっても、言葉にしにくくなっているのかもしれません。

 冒頭に「最近の不登校は悩まない」という先生の語りを取り上げました。以上を考えると、これは「不登校の生きづらさが減っている」というより「つらさが言葉になっていない」だけかもしれません。生きづらさは対話的な関係の中でじっくり耳を傾けられることで、言葉になります。「悩んでいないように見える」ということが、「言葉にできる関係性ができていない」のかもしれないのです。

 生きづらさを聴く「耳」が、ますます問われていると自戒を込めて思います。

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